ありえないことに感動がある。

つぶやき

 このところ聴力の衰えが大分進んだようで、補聴器のコマーシャルではないが、テレビの音量を高くしてときとぎ家内に「こんなにまでして」と怒られる。

 上の歯が総入れ歯になってしまった。目も眼医者の話ではこれ以上矯正視力を上げることはできないという。レンズの度数を上げればいいというものではないらしい。

 いよいよ高齢者として準備万端ということになるが、ありがたいことに髪の毛は少し白髪が目立つようにはなったが、まだふさふさと言っていいほどある。お陰ではた目には多少若く見えるらしい。

 リタイアして時代劇が好きになったということはないが、この1ヵ月くらい前から「遠山の金さん」をときどき見ることがある。
 昔シリーズで放送されていたものだが、今はテレビ埼玉が毎日放送している。

 「遠山の金さん」は松方弘樹が演じているが、このシリーズでは何人もの役者が金さん役をやっていたようだ。杉良太郎の金さんもこの番組らしい。

 耳が遠いから正直なところセリフはあまり聞き取れないが、筋はワンパターン。最後に片肌見せれば「これで1件落着」。

 昔はこういう番組がはやった。水戸黄門しかり、大岡越前しかり。時代劇だから時代がかるのは当然だが、どうも見ていて恥ずかしい。

 だが見てしまうとそれなりに納得してしまうようなところもある。松方弘樹という役者はなかなかの二枚目。大げさといえば大げさだが、時代劇とは所作振る舞い。いい役者だったのだなと思う。

 松方弘樹さんもいつのまにかテレビから姿を消してしまった。73歳の時脳腫瘍を発症し、1年くらいの闘病で翌年に亡くなっている。
 訃報を聞いた梅宮辰夫さんの狼狽ぶりが異様なほどであった。当時彼も病を発症し、年下の人間の死が他人事とは思えなかったようだ。

 「遠山の金さん」というような時代劇には、勧善懲悪の痛快さとバカらしさが併存している。日本人はこんな子供だましのような勧善懲悪話がなぜ好きなのか。

 勧善懲悪は日本に限るものではなく、物語というものは多かれ少なかれそういうことになる。西部劇もワイアット・アープとクラントン親子との悪漢と正義の戦いである。

 だがちょっと違うのは、日本の勧善懲悪は悪者が善人を虐げ、偉い人が出てきて悪者を懲らしめるということになっている。当事者同士で戦って、最後は正しいものが勝つというパターンではない。

 どうも正義が勝つということだけでは今ひとつ感動が足りないようなのだ。いじめられ苦しめられていた善人が偉い人によって救われ、偉い人からねぎらいの言葉をかけられないと日本人の満足する勧善懲悪にならないらしい。
 
 黒澤明の時代劇には私が知っている限りにおいて、偉い人が悪者を懲らしめるという筋書きはない。
 
 七人の侍も「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」と志村喬演ずる勘兵衛に語らしている。戦い終わって七人の侍は三人しか生き残らない。七人の侍はスーパーマンではなかった。

 えらい人がいつか必ず助けてくれる、ということはありえない。そのありえないことに日本人は感動する。

 七人の侍には涙する人はいないと思うが、遠山の金さんには泣く人がいる。
 どう理解したらいいのか。

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