人が死んでは正義もない

つぶやき

 「容疑者は裁判が確定するまでは犯人ではない」というのは刑事裁判の基本中の基本。

 裁判が確定するまでは犯人ではないのだから、犯人のように取り扱ってはいけないのだが、実際は犯人のように取り扱う。

 なぜそうするのかと言えば、警察も検察もそれに裁判所も「容疑者は犯人に決まっている」と思っているからである。

 逮捕されて一定の取り調べ期間を過ぎれば解放すべきだが、自白しない限り勾留を続ける。

 保釈請求をすると「証拠隠滅の恐れあり」として請求を却下する。
 
 誰でも自分の不利な証拠は隠しておきたい。裁判が確定するまでは犯人ではないのだから、証拠隠滅は当然の権利として認めらるべきものである。

 因みに、偽証罪は被告人には成立しない。自分のために偽証するのは当然のことだからである。それと違うところはない。

 容疑者が犯人であることを立証する責任は起訴した検察にある。容疑者を痛めつけて容疑者から立証資料を得ようとするのはフェアではない。

 保釈を認めるのは裁判官である。そもそも証拠隠滅を理由に、犯人と決まったわけでもない人間の自由を奪うというのは正しくない。

 最高裁が保釈の運用に関して、裁判官の研究会を実施するという。

 大川原冤罪事件で、警視庁と最高検は冤罪原因の検証結果を公表したが、裁判所は保釈を却下し続けたことの検証はしなかった。

 それは「裁判官の独立」を保障しているため、個別の裁判官の保釈判断について検証のようなことができなかったからとされている。

 「裁判官の独立」とは、裁判官は自己の心証のみで裁判をするもので、その裁判について他の裁判官も上級裁判所も一切干渉してはならない、ということである。

 もちろん悪い制度ではない。自由な立場で正義に基づく裁判がなされることは大切なことである。しかしその反面、裁判の検証が求められるときそれを拒否する根拠ともなる。

 さらに実際の運用面ではそんなきれいごとばかりではない。最高裁の考えに反するような裁判をした裁判官は出世できるはずがない。地方に飛ばされる、任官されない、などという不利益があることは知られている。

 だから定年間近の裁判官は時折無罪判決とか、最高裁の意向に反するような判決を出して、長年の鬱憤を晴らす。

 最高裁が保釈のあり方を協議する場を設けることを決めた背景には「人質司法」に対する社会の批判の高まりがある、と新聞が報じている。

 「人質司法」という言葉を耳にするするようになったのは、ニッサンの元社長カルロス・ゴーンの逮捕以降だと思う。

 ゴーンは見事に逃げた。検察は悔しがったが今でも何もできない。ゴーンは逃走後日本の「人質司法」の非人道さを世界に訴えた。

 世界の司法はゴーンの主張を認めたが、日本の司法は批判を受けても変わろうとしなかった。

 大川原冤罪事件では無実の人間が長期間勾留され、その間に胃がんを発症し、8回も保釈を請求し、家族も特別の手紙をもって裁判官に訴えたにも関わらず、すべて請求を却下し、元顧問の相嶋静雄さんは起訴取り下げを知ることもなく亡くなった。

 ゴーンのときは悪いのはゴーンで済んだが、大川原冤罪事件ではそうはいかない。人がひとり死んでいる。

 相嶋さんの死が「人質司法」は本当に「人質司法」なんだということが、司法たるもののなんたるかを知らない庶民にまで分かってしまった。

 最高裁も知らぬ存ぜぬでは済まされないことになった。

 相嶋静雄さんとそのご家族にはなんとも申し訳ない言い方であるが、日本の制度はどんなに悪法であっても犠牲者が出ないと何も変わらない世界である。

 その犠牲も庶民の涙を誘う理不尽でなければ制度は動かない。難しい理不尽は庶民には理解できないから放っておけばいいが、涙が絡んでは人の情に残る。人の情に残ってはいつまでも記憶から消えない。

 相嶋さんの死は国家権力による理不尽によって生じたもの。国家権力に誤りはないとしてきたものが、誰にも分かる理不尽で人を死なせてしまった。

 これはまずい。正義の味方の裁判所が悪人になっている。最高裁にとってはそれだけのことなのだ。

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