空気は読むもの

つぶやき

 自民党総裁選は告示から投票まで2週間くらいのことだが、ピンボケで間延びしているように見える。 

 小泉進次郎氏優勢と伝えられるが、林氏追い上げ、という記事もある。
 いずれにしても自公だけでは首班指名ができないのだから、野党との連携がカギとなる。野党も寄り付き方が難しい。

 小泉進次郎氏を見ていると何かが思い浮かぶのだが、それがなんであるかなかなかつかめなかった。どうもそれが「KY」であることに最近気が付いた。

 空気が読めない人ではないと思うが、人にそのような印象を与えるのが小泉進次郎氏のキャラである。

 何度が小泉氏のことを書いているが、嫌っているわけではない。内閣総理大臣には向いていない思うだけである。この人が総理になれば自民党は復活する、というのは国民をバカにした話である。

 「KY」という略語は「空気を読む」でも「空気が読めない」でもどっちでもいいはずだが、「空気が読めない」に限定して使われるものであった。

 「KY」と言えば周囲の空気が読めないダメな人ということになる。
 若い人たちがなんでもかんでも略語にした時代のこと。この略語の意味を知るのに時間がかかった。

 「KY」(空気が読めない)という言葉はいつごろから使われるようになったのか。 2007年の新語・流行語大賞にエントリーされたとの記録がある。

 日本の社会は、言葉は違うが昔から「空気を読む」社会であった。
 稲作を中心とした農耕社会では村単位での協調が求められ、「目立たず、調和を乱さない」ことが、生存のための知恵となった。

 議論を避け、察し会うことで対立を避けてき日本人の特性が、農耕生活によって育まれたという指摘に世間が納得した。

 しかし高度成長期、外国との関係が盛んになるにつれ、日本人の「察しの文化」は美徳どころか批判の的となる。

 「察する社会は議論を好まず、議論しても結論を出さず、曖昧のままで話が伝わらない。結局何がしたいのか分からない。なにを考えているのか分からない」

 そんなことから自分の意見はハッキリ述べる。曖昧にしない。立ち位置を明確にする、ということが学校教育においても社会においてもしきりに言われた時期があった。

 そんな時期に「KY」が登場した。空気を読むことが批判されていた時代に空気が読めない人を揶揄して言葉である。

 若者たちの「空気が読めない」とはどういうことだったのか。
 シャレた居酒屋での飲み会で、気の利いた言葉のひとつも返すこともできない友人を仲間外れにする言葉ではなかったか。

 「KY」に「空気を読む」という意味がないということは、空気を読むことの大切さを知っての言葉でない。批判するだけの言葉である。

 結局「察する社会」は外国から批判を受けてもそのままである。
 

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