本質は分からないほうがいい

つぶやき

 30歳くらいの頃、40歳くらいの職場の同僚から、「君は本質をつかむのが早い」と言われたことがある。

 いい話として言ったように思われるが、この同僚はなかなかの策士。自分の出世のためには同僚や部下を売るような人であった。

 多分私のことは危険人物として上司に報告していたはずである。企業の本質はつかんではならないものである。

 しかしその同僚に言われるまでもなく、若い頃から物事の本質をとらえ、それを行動の指針とするようなところが私にはあった。

 本質をとらえると言うとエラそうであるが、単なる「習性」である。

  物事の本質や人間の本性を見抜くことは難しいことではない。本質は隠れていようといまいと、存在そのものが発信するものであるから、誰にでも分かることである。

 この習性は私の人生にいろいろ影響した。

 いい面で影響したのが資格試験の受験である。
 資格試験を目指したとき、「法律における理論とは何か」ということにこだわった。理論は本質である。
 
 法律における理論が深遠な哲学ではなく、「都合」とか「便利」という極めて日常的なものであることに気がついた時、その年の試験になんなく合格した。

 しかし私の習性は、あまりいいことではないことの方の影響が多かった。
 転職を何度もしたのもそうであるし、友人がいないというのもそういうことである。

 どうも本質を見抜くと言っても、悪いことに決めつけてしまうところが私にはある。どの会社も長居するところでないと思ってしまうし、人に対しても、出来たらつき合わないほうがいいと思ってしまうのである。人のいい面の本質を見抜くいうことがなかった。

 人は自分のために生きているのであるから、まず他人のためにいい人であるはずがない。

 人間関係はそういうことを前提として、ではどうするかということであった。

 本質を見抜くことは人を否定することになる。

 「語るべき本質」と「沈黙すべき本質」がある。

 人生に沈黙は大事なことであることを知る。

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