「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」
先日の広島平和記念式典で、石破茂首相はこの句を追悼の辞に引用した。
知らなかったがこの句は、平和記念公園そばの《原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑》の背面に刻まれているという。
この碑は1971 年に建立されたそうだが、何年か前に広島を訪れた時気がつかなかった。
詠者は正田篠枝さん(しょうだ・しのえ)。爆心地から約1.5 kmの自宅で被爆した歌人である。1965年55歳で亡くなっている。
原爆で国民学校の教師約200人・児童約2 千人が犠牲になった。
ひどいことをアメリカはする。
昼前に家内といつものとは違う方向に車を走らす。気分転換には目的がない方がいい。
原爆のことから気分転換ということではなく、このところ胃カメラだの大腸カメラだのと気を使うことばかりであった。
いつものと違う方向となると東京方面。清瀬や東久留米の町を眺めることになった。
清瀬という町はハンセン氏病、結核という印象があるが、ハンセン氏病の医療施設である全生園は東村山市であった。
「全生園」は「ぜんせいえん」と読んでいたが、「全生園前」の道路信号に付いている地名表示板には「Zenshoen」と記されていた。
全生園前を過ぎて左折すると、道路は深い雑木林に囲まれ、あちこちに病院の看板が目立つ。
清瀬市には昭和以降15近くの結核療養施設が置かれていたという。
時代が昭和になったころ、当時は不治の病とされていた結核患者が増えて病院が不足し、病院増設地として東京郊外で地価が安く、広大な雑木林が残されていた清瀬の地を、結核療養の拠点としたらしい。
昭和6年に東京府立清瀬病院が建設され、同病院を皮切りに、傷痍軍人東京療養所など結核療養施設が昭和19年までに増設されて、清瀬は全国有数の結核療養地となった、とウィキペディアにある。
この二つの医療施設が現在の「東京病院」だそうである。
私の父は傷痍軍人で結核で亡くなっている。もしや亡くなる前の昭和22年頃、「傷痍軍人東京療養所」を訪れていたかもしれない。
「おいしいものでも食べて帰ろう」と、清瀬から東久留米を抜けて自宅方面に向かったが、どこもかしこも駐車場は混雑。
結局どこの店にも入らず、我が家で妻の冷麺に居心地のよさを感じる。おいしいものは我が家にある。
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