真摯としっかり

つぶやき

 どうしてこうも政治家は「真摯」と言う言葉が好きなのか。この頃は「真摯」と「しっかり」のオンパレードである。悪いと言っているわけではないが、何ごともオオカミ少年と同じで、多用すると新鮮味もなく信用も失う。

 そのうち、「真摯とは政治家が発言する際嘘をつくこと」と国語辞典に載るのではないか。

 「しっかり」は、しっかりしなさいと、親が子に言う言葉であった。今は政治家が自分に向かって言っている。政治家がしっかり仕事をするのは当たり前。「しっかりやっていきたい」と答弁されても本当かなと思うしかない。

 言葉は時代と共に変化する。語源を調べて分かった気になって、言葉の誤用を指摘しても年寄りのイヤ味にしかならない。

 最近やっと慣れてきた若者言葉の「ヤバイ」は全く分からなかった。何がヤバイのかと思っていたら、ヤバくないことをヤバいということになっていた。

 言葉というものは、共同体の構成員に共通の理解があるから通用するもの。言葉の意味の変遷というものは、共同体の細分化ということなのか。

 むかし外山滋比古氏の本に、「連歌は特定の社会においてしか成立しない」というくだりがあり、なるほどと思ったものである。

 そんなことから「誤用されている日本語」と検索してみるとあるわあるわ。このブログにもずいぶん間違った理解で使ってきた。

 自分だけの誤用ならそれでいいのだが、言葉とは相手があって使うもの。
 相手が正しい意味を知っていても、相手が間違って理解していても、恨みを買うことになることがある。

 あの人は「気の置けない人だ」と言う言葉をどういう意味で口にするか。

 自分が正しく理解していて、相手も正しく理解していればめでたしだが、相手が誤った理解をしていれば恨みを買うことになる。

 自分が誤った理解をしていて、相手が正しく理解していたとすれば、悪口を言ったのに喜ばれることになる。

 ブログには穿った見かたをしてきたが、穿った見かたとはひねくれた物の見かたということではなく、うまく本質をついた正論ということになっている。

 人生斜に構えて生きてきたが、斜に構えるとは礼儀正しく身構えることらしい。 

 思わず自分の知識不足に失笑してしまうが、失笑とは呆れるということではなく、思わず笑いがこぼれることだという。失禁と同じらしい。

 「♬どうすりゃいいのさ思案橋♬」である。

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