今年もあと2日。年末と正月の間のこの時期が好きである。
掃除をするわけでもなく、もちろん正月料理を手伝うということもないから、歳末気分を味わうということはないのだが、いくつになっても正月が待ち遠しいということらしい。
元旦という日は普通の日より長いものであってほしいが、いつもあっという間に暮れてしまう。元日の夕方というものは寂しいものである。正月は元旦に限るから、2日以降は炭酸の抜けたビールのようにつまらない。
今年健康面では特に大きな病気はしなかった。家内が検診で肺の影を指摘され心配したが、コロナの後遺症ではないかという医者の診断に安堵している。
私は2月頃、前立腺がんの初期症状といわれる出血があったが、幸い秋頃にはその症状が消え、排尿などに特別な違和感はない。
がんの定期検診は変化なし。脊髄症、狭窄症はこれ以上悪化しないようにするしかない。人間歩けなくなったら生活の半分以上はないに等しい。
我が町も一段と高齢化が進み、家の前を歩く見慣れた人達がみな杖を使うようになった。
しかし高齢が進むということは、若い人が育つということである。
以前、我が家の庭に咲く花を欲しがった近所の幼女は、もう小学校を終わるくらいかなと思っていたら、大学2年生だそうである。
孫2人は来春大学生。孫娘は小学校の6年生になる。希望に燃える若い人たちの生活というものを、高齢者は気がつかないものである。
高齢であることを愚痴るより、若い人の話に耳を傾ける方がいい。孫たちは思う以上に成長している。
息子は今年転職した。私が転職した歳と同じ歳であった。生き馬の目を抜くようなビジネスマンから大学職員への転身である。
人生、心身ともに心底納得できる仕事に就くということが大事なことである。
歳をとって、それまでの人生を後悔したり批判するようでは、何のために生きてきたのか分からない。若さは歳を取ったときのためにある。
金儲けではない人間関係というものを私は知らないで過ごしてきた。そんな話を息子から聞いてみたい。
今年も、この町で何十年も前に知り合った人が何人も亡くなっている。よく見かけていた人を見かけなくなったから、知った以上に亡くなった人は多いのかもしれない。
2週間前に家内のいとこが孤独死した。幸薄い人であったが、77歳まで生きてきたということには何か楽しみもあったのであろうか。「人生みなそれなりに」の生涯であったことを祈るばかりである。
高齢者の歳時記は人の死になってしまうが、高齢とはそういうものである。
避けようにも避けられるものではない。
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