人生の楽しみ

つぶやき

 まあなんとか毎日気晴らしをしながら生きているが、これで病気もせず、元気に定年とかでリタイアしたらどんなに退屈なことかと思う。

 がんの再発・転移が気になり、脊髄症から歩行困難になってリハビリに多少とも気を使うから生きている実感もあるが、健康で心配することが無かったら何もすることがない。病気は高齢者のアイテムであると言える。

 自宅マンションの8階から地上を歩く通行人に向かってテレビや空気清浄機などを投げ捨てて殺害しようとした疑いで、無職で77歳の男が逮捕された、というニュースがあった。
 男が投げ捨てた物の中には重さがおよそ15キロもある電気製品もあったらしい。人にあたれば即死である。幸いにも怪我人は出なかったようだ。

 警察の調べに対し男は、「今後の人生に楽しみがないと考えるといら立ってきて、部屋の窓から物を落としました。通行する人も多いことは分かっていましたが、当たって死んでもいいと思いながら捨てました」などと、容疑を認めている。

 この男は私と同い年である。「今後の人生に楽しみがない」と考えることには同感だが、だからといって、「死んでもかまわない」と物を投げつけることはまともではない。

 この男は病気をしていないのであろう。健康なまま高齢者になるとろくなことしか考えない。

 とは言え高齢者にはやはり閉塞感というものがある。生きがいとかやりがいとかいうものはそれを目的として感じるものではない。人生の楽しみというものも、生活の糧としての仕事に付随して生ずるもので、人生の目的ではない。
 人生には生きるための仕事が必要なのである。

 「これからの人生の楽しみはなんですか」と聞かれることは高齢者にとっては愉快な質問ではない。「これからの人生」に楽しみなんてあるはずがないからである。

 この男を弁護する気はもちろんないが、「今後の人生に楽しみがないと考えるといら立ってきて……」という気持ちは分からぬわけではない。

 高齢者はいら立っているのである。
 いつものウォーキングコースを歩きながら思うのは、いら立ちとの戦いである。
 この美しい景色の中で自分のいら立ちを解決しなければ、といつも思いながら歩いているのである。

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