赤木雅子さんが提訴した佐川元理財局長に対する損害賠償請求が棄却された。
文書改ざんに関して裁判所は、佐川元理財局長が方向性を決定づけた、と認定したが、国家賠償法により公務員個人の責任は問えない、としたものだ。
改ざん作業を強いられた夫の赤木俊夫さんは、うつ病を発症し自死した。
妻が夫の自死に至る事情を深く知りたいと思うのは極めて自然な気持ちである。
赤木雅子さんはその思いを込めて、国と佐川元理財局長に対して損害賠償請求訴訟を提起した。
国は請求について争うとしたが、一転して請求を認諾した。
当然のことながら安倍隠し、審理拒否のための不当な認諾、事実隠ぺいのための早期決着、と多くの批判が起きた。
しかし認諾の意図がそうであったとしても認諾した以上は、赤木俊夫さんの自殺と改ざん作業との因果関係や、約1億円の賠償請求をすべて認めたことを意味する。
国が自らに責任があることを認めたのであるからそれで裁判は決着である。法的に問題がある訳ではない。しかし合法ではあっても妥当を欠く印象は否めない。。
通常、訴訟において認諾がされることは滅多にないらしい。被告、原告双方に言い分があるから訴訟になったはずだからである。
したがって国が認諾したということは、国は赤木さんの主張を退けるような言い分を持っていなかった、ということも意味す る。
しかしそんなことは考えられない。人々が指摘するように裁判を続けることの不都合を避けるため、国は請求の認諾をしたと考えるのが合理である。
この認諾に妥当性を感じないのは、認諾しても国に何の損失も責任も生じないからである。訴訟は勝ち負けである。負けた方はしかるべく責任の負担と財産の損失を強要される。だから懸命に争うのである。
この認諾による国の責任は、財務省職員の減俸等の処分であり、財産の損失は税金で支払うことである。国は認諾しても何も失うものはない。ただ赤木さんの無念が残るだけである。
赤木さんは佐川元理財局長ら関与した人たちを、公文書偽造の罪で東京地検に告発している。国家賠償請求や民事訴訟よりも、刑事裁判は赤木さんの思いを叶えることになるかもしれないが、起訴は難しいような気もする。
刑法は人の復讐心を基礎にするものであるが、刑法が学問として議論されるようになると、検察官も裁判官も、妥当性より整合性を重んじるようになる。
時折り裁判所の判断が、社会の理解や共感を得られないものであるのはこのためである。
裁判は事実の有無を判断することである。金を貸した、いや借りていない、ということが争いになったとすれば、金を貸したという者はその事実を証明しなければならない。
それを証明するものは借用書あるいはそれに類するものということになる。金を貸すに至る事情を原稿用紙100枚に連綿と書き上げたとしても、1枚の借用書がなければ裁判に勝つことはできない。
昭和10年にカフェ丸玉事件と呼ばれる裁判があったた。古い話である。
カフェと言うのも今の時代で言えば、キャバクラとかキャバレーと言うことになるのだろう。
そこの客が当時の金で400円、今でいえば200万円という金を馴染みのホステスにあげる約束をしたらしい。
男は金を払う気などさらさらないから、ホステスは裁判に訴えた。よく訴えたと感心もするし、あきれもする。
結果としてホステスは負けたことになった。裁判所の結論は、そんな男女のくだらない訴えをしてお上の手を煩わすな、というものである。なんでも裁判にできるということでもないのである。
赤木雅子さんの訴えが意味のないものと言うつもりはない。
赤木雅子さんがどんなに裁判を通じて夫の死の真相を知りたいと訴えても、残念なことに夫の死の真相は訴えの目的にならず、証明資料にもならない。
訴訟制度では赤木さんの思いを実現することは難しいのである。
赤木俊夫さんの自死が社会に訴えたのは行政の異常さであろう。
文書改ざんの問題は当時の安倍首相の一言から始まったものである。
森友学園問題での「私や妻が関係していたということになれば、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」という発言である。
そこから忖度による改ざんが始まった。赤木さんの死は、この国の行政のあり様を改めて国民に示すことになった。
今から70年近くも前に松本清張氏が小説「点と線」で告発した行政の異常さは、現代でも存在しているということを国民は知った。
ではどうすればよかったのか。
赤木俊夫さんは自死することなく、国有地の払い下げに安倍首相が関与していると告発すべきだったのか、文書改ざんの事実を社会に訴えるべきだったのか。
その後この社会において信じられないことが起った。その安倍首相が一人の貧困に悩む青年に殺害されてしまった。
安倍首相の死を、憂国の士である政治家の宿命として讃える向きがあるが、それは違う。過酷な献金を強要する統一教会に関与していたから殺害されたのである。
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