昨日は広島に原爆が投下されて78年目になる日であった。
今ではこの日を「原爆の日」と呼ぶが、以前は「原爆記念日」とした事もあったようだ。判っているようで判っていないのが日本人である。
10年近く前に、NHKが広島と長崎への原爆投下の日についてアンケートをとったら、正確に答えられた人は3割ほどであったという。
原爆の投下日を答えられなかったからといって原爆に関心がないということではない。7割の人が知らなかった」と喧伝するものでもないと思う。
以前アメリカのオバマ元大統領が広島の平和記念式典に参加した。
被爆者の老人と抱き合う姿が報じられたが、それをどう理解すればいいのか判らなかった。日本人はこういう訳の判らない演出が好きである。
岸田首相は昨日の式典で「引き続き非核三原則を堅持しながら、唯一の戦争被爆国として、核兵器のない世界の実現に向けた努力をたゆまず続ける」と誓った。
岸田首相は核兵器禁止条約を批准しなかった。それでこんなことを慰霊碑の前で言えるのだろうか。
平和記念公園の慰霊碑の石碑前面には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれている。
過ちは誰が犯したものなのかと、この碑文を読めば誰もがそう思う。
「過ちは繰り返させませんから」というのが正しいのではないかと思う。
いろいろ議論があったであろうことは容易に想像がつく。ある政治団体は、碑文は犠牲者の霊を冒涜しているとして抹消改正を主張する運動を起こしたらしい。他人を冒涜している人間や組織は、冒涜という言葉を好んで使うものである。
その後、碑文の主語は「人類」とする公式見解により、大きな論争はなくなったとされている。人類が主語。大変な見識である。
そう言う意味であれば、敵を憎まず、人間愛に充ちた素晴らしい碑文ということになる。しかし日本人にこんな崇高な考えがあったのだろうか、こんな度量があったのだろうかと、私のような凡人は考えてしまう。
新聞の発行部数が激減しているらしい。新聞に限ったことではないが、活字文化の衰退が加速度的に進んでいるようだ。
私の家の隣は新聞販売店であったが廃業してしまった。また学生時代の後輩も、実家の新聞販売店を受け継いだがやめてしまって、大手不動産会社の等価交換に応じてマンション経営で生活している。新聞配達のことを思うと今は夢のような生活だという。
この先活字メディアはどうなるのだろうか。なんとなく予想できるが、そうなると寂しい気がする。
夏の高校野球が始まった。この炎天下、熱中症を心配するが、高校野球は根性であった。
県の代表校といっても自分が住む市の高校なら少しは関心があるが、離れた市の学校となると愛着も湧かない。
先場所地元出身のお相撲さんが優勝決定戦まで行った。舞の海の言葉ではないが、もうこれからこんなことはないだろうから彼に勝たせてやりたい。
負ければふがいないということになる。可哀そうだがそういうことになってしまった。しかし地元出身というのは応援する気になるものである。
先日テレビである高校の選手がインタビューに答えていた。チームの中心的な選手らしいが予選ではあまり活躍できなかったらしい。
甲子園では「いい仕事がしたい」と言う。ちょっと待ってくれと思った。高校野球はいつから「仕事」になったのか。
活躍することを「いい仕事」というのはプロ野球の選手ではないか。プロ野球の選手が口にしても違和感のある言葉である。
高校野球の選手は仕事なんかではなく、もっと溌溂と野球をやってほしい。(了)
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