私のようなへそ曲がりでも、新年は少しは楽しく思うものである。何ごとも新しいことは楽しいことであり、喜ぶべきものなのであろう。
大みそかの第九の放送を見始めたが、最初の2,3分でテレビを消してしまった。どういう演奏になるのか予想ができたからである。
指揮者下野竜也氏の指揮棒が明快すぎる。往年の指揮者がいいというつもりはないが、第九は楽譜通りに鳴ればいいというものではない。
日本だけのことなのか、ヨーロッパでもそうなのか知らないが、作曲することを書くという。「交響曲を書き上げた」と言う。
ベートーヴェンの時代に録音機があれば作曲技法というものも全く違ったものになったと思われるが、ともかく作曲は譜面を書くことになっている。なにより再現性、伝達性が要求されたからであろう。
譜面を読み取ることが時代と共に変わってきたのである。昔は譜面に作曲者の精神を読み取るものであったように思う。今は時間の経過を正確に読み取ることになったように思える。歌い上げる精神なるものがなくなってしまったのかもしれない。弦楽器などの奏法もずいぶん変わったのではないだろうか。さっぱりとしすぎている気がするのである。
昔を懐かしむことになるが、我々の第九は終わったようである。
紅白歌合戦は紅組が勝ったとネットにあるが、まだ紅・白に分かれてどっちの勝ち、などということをやっているらしい。
アホな話だと思うが、NHKとしては変えることも止めることもできないようだ。今後もこのまま紅白を続けることになるのであろう。
紅白をやめるとしたらなんと表現するのであろうか。70数年も続いてきた国民的歌謡番組である。時代が終わったと言っては能がない。紅白はとっくに終わっている。「NHKの終わり」、とでもしなければ格好がつかないことになる。
深夜のラジオ番組などで歌手を紹介するとき、必ずと言っていいほど紅白歌合戦の出場回数などがあげられる。まるで紅白に出場したことが歌手としての勲章であるかのようである。聴くたびに耳障りな話であるが、それだけNHKとしては紅白に権威を持たせたいということであろう。
元日の新聞の別刷りはテレビ番組の紹介である。毎年こんなことをする必要があるのだろうかと豪華なカラー刷りを見るたびに思う。テレビ放送が始まって以来、新聞はその日のテレビ番組を紹介することが最も大きな存在意味になってしまった。
今年もまたNHKの大河ドラマが紹介されている。紫式部が主人公だそうである。どんなものだろうか。平安絵巻が現代に通じるだろうか。主人公になるという女優さんもいまひとつ演技のうまい人ではない。受信料を払っているのだから、と文句を言いたいところであるが届くものでもない。
昨年末から漫才芸人のセクハラが報道されている。この漫才芸人は「テレビ界に君臨する」、と評される人だそうである。
漫才芸人がテレビ界を牛耳るという時代がずいぶん長く続いている。視聴者が安易な娯楽を求めることにもその原因がある。
大みそかのテレビ番組表は見たくない芸人たちのオンパレードあった。
健全な娯楽というものがなくなってしまった。健全な娯楽など時代遅れでちゃんちゃらおかしいという番組ばかりある。
異様というか異形が闊歩しているのが今のテレビである。元日早々から書くようなことではないが、今年もこういう年になるのではないか。
セクハラ問題はきちんと解決されなければならないが、うやむやで終わることは間違いない。(了)
コメント