袴田事件の再審が始まったが、検察はあらためて死刑を求刑した。
この裁判はまだ無罪が確定したわけではないから、検察の主張は当然と言えば当然ということになるが、取り調べ側の証拠捏造を争点として再審が認められたのだから、検察も黙って引き下がるわけにはいかないだろう。
もう一つ冤罪事件があった。平成15年、滋賀県東近江市の湖東記念病院で起きた患者死亡事件。
この事件は被告の刑が確定し、12年間の服役後、再審無罪が確定した。
犯人とされた元看護助手西山美香さんは、国と滋賀県に損害賠償を求めて訴訟を起こし、その口頭弁論が23日、大津地裁で開かれ、西山さんを取り調べた県警の男性警察官が証人として出廷し、西山さんが自ら質問にも立った。
再審無罪判決は、この警察官が、自身に対する西山さんの恋愛感情や、軽度知的障害があり迎合的な供述をする特性を利用して、県警が描く筋書きに西山さんを誘導し、明白なうそを含む自白をさせた疑いが強いと判断。捜査段階の自白の信用性と任意性を否定し、捜査の不当性を認めた。
これだけの事実認定がされて再審無罪判決がなされたということは、当初の1審から上告審まで一体何を審議していたのかと思う。
「県警が描く筋書きに西山さんを誘導し、明白なうそを含む自白をさせた疑いが強い」と裁判所は認定したのである。警察の犯罪によって西山さんは犯人にされたと言っているのではないか。
警察はそんな悪いことはことはしない、というのが国民の認識であるのに、それを裁判所は「した」と認定したのである。警察とはとんでもないところということになる。
西山さんはこの期日において、逮捕服役後初めてこの警察官に会った。
西山さんはこの日の法廷でこの警察官に次のことを質問した。
「取り調べで机を叩いたり本当にしていないですか」
「威圧的な言動や自白誘導は本当にしていないですか」
警察官は「していない」、と答えた。
西山さんの「本当に?」という重ねての質問にも「していない」と冷静に答えた。
西山さんの弁護人は次の質問をしている。
「今でも西山さんが殺害したと考えているのか」
警察官は「再審無罪の判決が出ているうえ、組織の一員として取り調べたので答える立場にない」と述べた。
「個人的にどう考えているか」という質問に対しては、県側代理人が「質問ではなく意見にあたる」と遮ろうとすると、西山さんが「答えてください。犯人と言ったらいいじゃないですか」と感情を露わにし、裁判長に「落ち着いてください」と制止された。
以上の当事者の発言内容は京都新聞の記事による
この記事を読んでひとつ納得したことがある。
警察官はどうして動揺もせず「していない」と冷静に答えられたのか。
「今でも西山さんが殺害したと考えているのか」という質問に対してどうして「再審無罪の判決が出ているうえ、組織の一員として取り調べたので答える立場にない」と論理的な答えをすることができたのか、ということについてである。
再審無罪判決は上記したように、捜査段階の自白の信用性と任意性を否定し、捜査の不当性を認めているのである。西山さんが警察官に質問したことが事実であることは十分推認できる。そうなのになぜ警察官は、そんなことは「してしない」と平気で嘘をつけるのか。
そういう答え方、考え方をすることの教育を受けているということである。
机をたたいて被疑者を恫喝し、脅し、供述を誘導することは当然の捜査行為であり、悪いことをしたという認識がない。悪いことをしたという認識がないから冷静でいられるのである。
何があっても決して「警察が悪かった」という発言はしてはならないことになっているのである。
自分の意志に反する発言をすることになんの疑問も持たない、恐ろしいほどの意識教育がされている。何のためと言えば「組織のため」ということであろう。
組織のためという意識は、組織の指示に従うということである。それは責任感を失わさせることになる。
「疑わしきは罰せず」は警察にも検察にも存在しないようだ。捜査に誤りがあるはずがない、犯罪の捜査においては何をしても許される、という権威主義がはびこっている。
裁判で無罪になった者は犯人ではない。しかし昔の冤罪事件を担当した刑事は退職後に「今でも彼が犯人と思っている」という発言をする。
そうかもしれないが、裁判で無罪になった者は犯人ではない。このことが腹の底から理解できない警察官や検察官が存在する限り冤罪はなくならない。(了)
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