ちょっと前まで「半年くらい前のこと」と言っていたものだが、あれからもう3年近くになる。
思いもしない病気を発症して仕事をやめ、その病気の手術は無事に済んだのに、それから心療内科を受診するような精神状態になってしまった。
夜、布団に入ると、なんとも言えない不安感に襲われ、胃のあたりがモヤモヤとして吐きそうになる。
いたたまれない気持ちになって布団から起き上がり、部屋の中を歩きまわって気分の納まることを待つ日が何日も続いた。
医者は私の不安を聞き出そうとする。「病気により仕事をやめ、人と連絡が取れなくなったことがすごく心配なのです」というようなことを医者に話していた。
医者は軽い鬱症状だと言う。家人は、「他人を鬱にすることはあっても鬱になるような人ではありません」と、冷たい言葉で医者に説明するが、家人も私も、「まさか鬱とは」という気持ちであった。
仕事をやめたのだからと、電話番号やファックス番号を解約し、山のような名刺を整理して、知人や得意先の連絡先を書いた電話帳なども処分して、これで仕事から解放されたと思っていた。
しかしそれらの処分行為は思いもかけず気持ちに負担をかけるものであったようだ。
電話番号の解約や知人の名簿リストを処分するということは、回復することの出来ないことである。そのことに気がつかなかった。
いたたまれないほどの気持ちというのは孤立感だと思う。私は社会との接点を自ら捨ててしまったのである。
今回のテーマは心療内科にかかることのつらさを綴ることではなく、友達は必要か、いらないか、ということを考えようということであるが、ちょっとした思い付きで結論を出すようなものではなく、人は自らの思考では制することのできない感情というものの存在を認め、もっとその感情に素直であるべきだと思うようになった。
もちろんそう思うのは、かつて経験した孤立感というものである。
友達は必要か、いらないか、という議論には、感情と理屈が混じっている。
友達に関するトレンドは、「人生には友達は必要である」ということから、「人生に友達はいらない」ということであるが、「人生に友達はいらない」という考えは感情を無視したものである。
武者小路実篤から始まった熱い友情は、タモリあたりで冷めてしまって「いらないもの」となってしまったようだ。
しかし友達がいない、友達ができない、という悩みは相変わらず多く、解消されたわけではない。
昔は友達がいないということは恥ずべきことであったが、最近では必ずしも恥ずべきことではなく、むしろ友達がいないということは、群れをなさず孤高の人としてカッコいいこととされている。
そのうえで、人間如何に孤独と対峙して生きていくことが大事なことであるか、ということが強調されている。
しかしこうした傾向や考えは、友達に関する問題の解決ではない。
友達は作るものではなく、できるものである。友達ができないからといって作れるものではない。
友達には、親友、朋友、校友、悪友、戦友と数限りなくある。最近ではママ友とかメル友というのもある。
友達に多くの種類があるということが、友達の深さと浅さを示すものである。
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