飽きることと人生

つぶやき

 小説や音楽の創作、映画などの製作において何より意図することは、読む人や聴く人たちを飽きさせないということであろう。このことは何事にも優先して考えられていると思う。

 大衆性ということは人々を飽きさせないということであり、芸術性とは飽きてもやむをえない、ということである。

 人を飽きさせないということは小説や映画などに限ったことではなく、日常の人間関係においても意識されていることである。

 「あの人と話をすると面白くて飽きない」という言葉はもちろん褒め言葉である。魅力がある人ということになる。小商売に成功する人はこういうタイプである。

 男女のつき合いにおいてはよりはっきりした意味を持つことになる。「いい人だけど一緒にいるとて飽きてしまう」というときは、男がふられたことである。

 若い時は飽きてしまう男の良さが分からない。飽きない男に騙されて初めて飽きてしまう男の良さが分かることになっている。

 分かったようなことを言うが、多少は人生経験豊富な年寄りである。馬鹿にしたものでもない。

 小説は単調な文字による物語であるから、話が佳境に入るまでは読む者に忍耐を強いることになる。

 こう言っては作者に失礼だが、芥川賞受賞作品というものは私にとって睡眠導入剤でしかない。いくら芥川賞と言ってもやはり小説は多少とも血湧き肉躍るものでなければ面白くない。

 半年も続くような連続ドラマは、穏やかな日常とトラブルの入れ替わりである。連続ドラマをここ何十年も見たことがないが、多分そういうことになっているはずである。物語を半年も続けるということがそもそも無理な話である。

 音楽の世界は対比の世界であるとっていい。強い音の次には弱い音が出る。激しいメロディの次には優しいメロディが来る。この繰り返しである。

 もちろんこうしないと聴衆が飽きてしまうからである。単調という言葉は調(しらべ)という字が入るのだから音楽のことがその由来かもしれない。単調な音楽ほど退屈なものはない。これはもう全身麻酔である。

 バイオリンという楽器は高音楽器である。低い音は基本的なCの音から4度低いGまでしか出ない。ピアノと違い音域が狭いから劇的な表現には向かない。そのためかバイオリンにはいろいろな奏法が編み出されている。

 基本的には弓をゆったりと上下させることによる美しい音色が基本だが、どんなに魅力的な音色であっても同じ音を1分も聞かされれば人は飽きてしまうものである。

 弓を弦から飛ばしたり引っかいたり、弓を使わず弦を指ではじいたり、時には弓を反対に持って毛ではなく木の部分で弦をこすったりする。

 聴く者は単に優美な音色を聴くだけではなく、奏者の曲芸も見ることになる。

 先日深夜のラジオ放送で美空ひばりさんと倍賞千恵子さんの歌を聴くことがあった。

 美空ひばりさんの歌を初めて聞くわけではないが、歌はもちろんうまいのだろうが、聴いていて飽きないのである。多種多彩な声である。低音のすごみとか高音の美しさは、不世出の天才といわれるだけのことはある。

 二人の名前を出して美空ひばりさんの歌を褒めたわけだから、倍賞千恵子さんのことはその反対ということになるが、申し訳ないがその通りなのである。

 松竹歌劇団で歌のレッスンは十分したと思うが、高音だけで何の抑揚もなく、ただきれいな声だなというだけなのである。「下町の太陽」、「さよならはダンスの後に」。イタリア歌曲の発声を聴いているようである。

 下町の雰囲気も女性の切なさも何も表現されていない。言い過ぎたと思うが外れてはいないと思う。しかし倍賞千恵子さんはいい役者である。作曲家が悪いのかもしれない。

 私は飽きっぽい人間である。このことだけは自信を持って言える。物事だけでなく人にも飽きてしまうのである。そのため友達がいないことになる。

 しかし私は人に飽きるほど人とつき合うということはない。それでどうして人に飽きるのであろうか。人のいい面よりも嫌な面が気になるからだと思う。人の嫌な面を見るといつも逃げ出していた。

 このことについては以前から女房からもいろいろ説教をされている。「人を好きにならないから友達ができない」チクリチクリと事あるごとに言われる。

 そのせいか少しは反省し考え直すような気にもなった。
 しかし最近そうではないと思うようになったのである。
 私は人に思いをかけ過ぎてしまうのだ。それが失言になったり、私の思いに何も答えようとしない人が嫌いになってしまうのだ。
 友達がいないのは私のせいではない。そういうこともあるのだ。

 

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