昭和がブームなのかは知らないが、東京近郊の遊園地などは昭和の街並みを再現して、それがかなり人気であるらしい。
まさにその街並みの真っただ中で育った私であるが、何が良く、何がレトロなのか、正直なところあまりよく分からない。
思い出すのはあの街並みの板張りである。モルタル塗りの家はなかった。家も塀も板でできていた。
ただその昭和ブームという中で、丸いちゃぶ台は懐かしい。ちゃぶ台ももはや死語であるが、畳の上のテーブルのことである。
昔の家にはダイニングもリビングもない。ひとつの部屋が食堂、居間、寝室まで兼ねるのである。
テーブルなど置きっぱなしにできるはずがない。食事のたびに、壁とタンスの隙間などに差し込んでおいたちゃぶ台を引っ張り出し、その足を直角に立たせ、食事が終わればパタン、パタンと折り畳みまた仕舞うのである。
裸電球の下、この丸いちゃぶ台を親子が囲んで夕餉を取る。
学校のことでも話しているような坊ちゃん刈りの男の子とおさげの女の子。
2人の話を聴いているようなお父さん、その家族を優しく見つめるきれいなお母さん。これが昭和の代表的な食事風景とされている。
私は母子家庭であった。しかし母とテーブルを囲んだ記憶はほとんどない。せいぜい正月に、「それじゃ私も座りますか」、と着古した着物の胸を手で押し上げるようなしぐさをして、食卓に着いた母を思い出すだけである。
食卓は楽しいだんらんの場ではなく、食べちまう場であった。(早く食べちまいな、と母がよく言った言葉である)
貧しい母子家庭であったが食卓はいつももりだくさんであった。私は一度も空腹感を経験したことがない。しかし母のおかずというものを見たことがなかった。
私たちが座れば食事がすぐに用意された。母は行ったり来たり動いているだけで、食卓に着くことはなかった。
いつも腹いっぱいに食べたが、味覚は育たなかったようだ。腹いっぱいにすることが母の食事であり、農作業から覚えた味なのか味の濃いものであった。
義父がはじめて母の料理を食べたとき、一口飲んだ味噌汁を噴き出してしまった。しょっぱすぎてビックリしたらしい。
そんな味音痴な私が、味の分かる料理好きな女性と結婚した。どんな新婚時代であったか、妻にしてみれば驚きの連続であったろう。
妻が食卓に着く前に食べ始める。妻が食事を始める頃はお茶を飲んでいる。そのころ何の疑問も持たなかった。今まで通りしただけのことなのである。
味が薄くて困った。味噌汁がおすましになるなど考えられないことだった。
なんでもくたくたになるまで煮なければ料理ではないと思っていた。
火を止めてから入れる茗荷の味などあり得ない味であった。淡白な味がわからなかった。野菜のうまさがわからなかった。微妙な味など分かるはずもなかった。
何度か妻から注意された。その通りだなと、こんな私でも思った。しかし習慣は治らなかった。
味は少しずつ分かってきた。妻の味が、言い方はおかしいが正しい。しかし時折り義父が噴出した味噌汁を思い出す。決してまずいものではなかった。
20数年前から自宅を仕事場にしてきた。仕事は3時過ぎには終わってしまう。4時ころから家で飲むことが身についてしまった。
若い頃、いつも食卓を見て、私の給料はこんなに高かったかな、と思ったことがある。子育ての頃の家計が苦しいときも、妻の食卓はいつも豊かで健康で美しいものだった。
この歳になったから思うのかも知れないが、控えなければいけない酒をちびりちびりやりながら、次から次と出てくる行き届いた小皿と小鉢にありがたいと思う。
仕上げの食事はその時の酔い具合で決める。そばかうどんか、お茶漬けか、おじやか、はたまたカレーうどんか。
これほどの贅沢はない。酒を飲まない妻に、酒の肴の何たるかを教えてもらった人生だった。
我が家のリビングテーブルは、どこかの小綺麗な割烹料理屋である。申し訳ないが、これからも先に食べ始めることを勘弁してもらう以外ない。(了)
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