音楽のこと

音楽

 私がクラシック音楽を聴くようになったのは中学1年の頃からである。兄の影響である。兄は中学の音楽の先生の人柄が好きで聴くようになったという。

 音楽を聴くといっても家にオーディオ装置があるわけではなく、もっぱら家庭用のラジオで主にNHKの放送を聴く以外になかった。

 当時FM放送は開始前か、試験放送ではなかったかと思う。

 昭和30年代の半ばころ、ラジオにはクラシックの音楽番組が結構多くあった。民放ですら常設の番組を持っていた。文化放送とニッポン放送が同時放送することにより、ステレオ放送などということをやっていた時代である。

 このラジオ放送だけで大概のクラシックの名曲というものを聴くことができた。運命、田園、未完成、新世界。秋葉原で買ってきた小さなラジオでも、これらの曲の魅力は伝わった。このラジオのおかげで音楽が好きになった。

 その当時日本は経済的に伸び盛りであったのか、民放がオーケストラを持っていた。

 東京放送(今のTBS)は東京交響楽団、フジテレビは日本フィルハーモニー交響楽団。読売日本交響楽団はこれよりだいぶ後であるが、日本テレビ(東京では)の専属である。関西のことは全く知らない。

 懐かしい名称であるが、東京放送はNECコンサート。フジテレビはブルーバードコンサート。文化放送は東急ゴールデンコンサート、としてオーケストラ番組を放送していたのである。

 深夜に放送していたわけではなく日曜日の朝10時とか、夜の8時のまさにゴールデンタイムに放送していたのである。今では考えられないことである。

 NHKのオーケストラについてはどういう訳かほとんど記憶がない。このころN饗がテレビに映ることはほとんどなかったように思う。そのためか子供心にN饗は雲の上の存在のような特別なオケであった。

 これらの番組がひと月に1回公開録音を行った。往復はがきで申し込み入場券が送られてくる。

 私がオーケストラを聴くことができるようになったのはこの公開録音のおかげである。中学生の身で演奏会の切符を買うことなどできるはずもない。毎回開場の2時間以上も前から並んだから、席はいつもS席を確保できた。

 会場は主に、文京公会堂、杉並公会堂。共立講堂や産経ホールということもあった。いまも昔の姿で残っているものは残念なことに一つもない。

 冬の寒い日に、誰よりも早く一人開場を待つ少年をかわいそうに思ったのか、係の女性が時間前に招き入れてくれたことがあった。あの時の暖房のにおいは今でも覚えている。

 ライトを落とした開演前の舞台はコントラバスなどが置かれ、その赤い色合いや椅子の配置にぞくぞくしたものだった。

 オーケストラを聴くことは驚きであった。音量に驚いたということもあるが、普段ラジオで聴いてきた曲にこんな部分があるのか、という驚きである。

 小さなラジオからは高い音域の主旋律部分しか聴こえない。低音楽器がどんな音を出しているのかなど思いもしなかった。オーケストラはいろんな楽器がいろんな旋律を弾いている、ということを知ることになった。

 この公開録音で、その後活躍された若い音楽家の方たちを知ることになった。
 佐藤瑛理子さん、潮田益子さん、久保陽子さん、舘野泉さん、秋山和慶さん。秋山さんはそのころ東響の研究生であった。

 渡邊暁雄さんには驚くことばかりであった。何よりハンサムである。長身でスマートで格好いい。指揮棒を持たないことが新鮮であった。母などは、「音楽をやる人はやはり品がいいね」、などと驚いていた。

 特筆すべきことがある。私はアルブィド・ヤンソンスを見たのである。オケは東響。曲はチャイコフスキーの4番。コンマスは小林健次さんであった。

 公開録音があの時代、音楽好きな人たちにどれだけの恩恵を与えたは計り知れないと思う。

 残念なことにその後放送会社はオーケストラを持つことはなくなった。オーケストラを持つことはステータスなのであろうが、そんな格好をつける余裕がなくなったということであろう。

 読売日本交響楽団は今でも新聞、テレビの読売のオケであるが、テレビで見ることができるのは深夜3時頃である。何を考え てこんな時間に放送しているのだろうか。

 この放送会社が無駄の極みであるオーケストラを手放さないことが不思議でならない。オーケストラを育てるような会社には到底思えないからだ。正力さんの遺言があるらしく、手放したくても手放せないらしい。

 しかし読売日本交響楽団とは恐れ入った。山下画伯風に言えば「やっぱり、日本より読売の方がエライということなのかな」
 楽しい話で終わりたかったが、つまらないことになってしまった。

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