高校のときの国語の先生が詩人であった。
私の学年を担当していたとき、大手新聞社の文学賞を受賞した。
クラスの誰かが授業中、先生おめでとうございます、というようなことを言ったが、先生は少し笑っただけで受賞に関しては何も言わず、授業を続けられていた。
受賞した詩集は「音楽」という題名で、そのとき先生のペンネームが那珂太郎ということを知った。
教科書に萩原朔太郎の詩がありその授業の中で、詩と小説の違いがテーマとなった。
詩を学級新聞に投稿するクラスメイトが、詩の方が芸術性が高い、という発言をした。
先生は、どうして詩の方が芸術性が高いのだろうか、とみんなに問いかけた。手を上げる者はなく、先生は出席簿の順番に名指ししていった。
50音順の名簿なので私の番はすぐに来た。私の名前の最初の音はあ行である。
私は、余分なものを取り除いたものが詩だと思います、と思いつくままに答えた。
何人もがそれぞれ自分の考えを答えた。その授業で先生は何が正解かを示すことはなかった。
先生の詩集を買った。なんとも難しい詩であった。もちろん日本語で書いてあるわけだから分かるはずだが、有名な文学賞受賞作品となるとさすがにそう簡単なものではない。結局私は読み切れなかった。
数年前先生の訃報を知った。92歳だった。あのとき先生は43歳ということになる。熱心とか情熱とかを感じることのない淡々とした冷静な授業だった。
ただときどき顔が緩む時があった。生徒の幼稚な答えに対する苦笑なのか、生徒の言葉に共感したのか、それは分からないが、あまり親し気な先生ではなかった記憶がある。
詩集「音楽」は良く分からなかったが、先生は何故詩集に音楽という題をつけたのだろうか。なにかの意味を託したことは明らかだ。
その音楽はヨーロッパの音楽なのか、アジアの音楽なのか。ヨーロッパの音楽としたらバッハなのか、ベートーベンなのか。そういうこととは関係のない意味での音楽なのか。
人はなぜ音楽に感動するのだろうか。ここでバッハやモーツァルトを持ち出すまでもない。音楽の感動は動かしようがない。
林光さんの著作の中に、動物は沈黙に恐怖を感じるものであり、音のある世界に安心を得るものだ。その音を音楽としたのは人間の英知だ、という趣旨の記述があった。
音楽の起源が沈黙の恐怖からの解放だとするのは、納得できるほどの力がある。
蛇足になるがその昔、芥川也寸志さんと黒柳徹子さんが司会をする音楽番組があった。その中で幼い男の子がよちよちと歩いてきて「音楽はどうしてあるのですか」と質問する場面があった。
黒柳さんは先生(芥川也寸志)に聞いてみましょう、と言って芥川氏の答えを二人で待つ。
芥川氏は「音楽は人間が生きていくために必要なものなのです」と答えた。いい答えではあった。しかし芥川氏の顔にはテレがあった。
音楽家としてこのようなことは口にしたくない、という気持ちがあったかどうかは分からない。NHKという放送局はこういうことを恥ずかしげもなくよくやるところである。。
音楽は抽象である。詩人は言葉の抽象に命を懸けているのだろうか。
那珂太郎先生のご冥福を祈る。(了)
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