「雪の降る夜はたのしいペチカ。ペチカ燃えろよ おもては寒い」
昨日、関東地方は予報通り昼頃から雪が降り始めた。
今朝、家の周りは一面の雪景色であるが、すでにわだちの跡がある。新聞屋さんと思うが、大雪でも配達しなけならない。大変な仕事だと雪が降るたび思う。
道路の雪かきをしなければならないが、年寄りは勘弁してもらいたい。
降り続ける雪を眺めていてこの歌を思い出した。ペチカは日本人に馴染みのあるものではない。
白秋さんはどうしてペチカを詩にしたのだろうか。単なる新し物好きか、異国趣味なのか。
雪が降り始めてまもなく「雨あがる」という映画のテレビ放送があった。
原作は山本周五郎。黒澤明が映画化を予定していたが、脚本を仕上げる前に亡くなってしまったため、関係者が黒澤の遺志を継ぐように制作したらしい。
何年か前にテレビで一度観たことがあるが、もう一度観てもいいと思っていた映画である。人間の優しさを描いた作品ということになっている。
夜間大学に通っている頃、サークルで知り合った女性から、「小説や映画というものは、現実にはあり得ないことをストーリーにするものです」という話を聞いたことがある。友情とか恋愛もそういうものであると言うのである。
理屈っぽい男がよく口にした言葉である。どうやら彼氏から聞いた話の受け売りのようだったが、妙に納得しているような口調であった。
学生運動の激しい時代であったが、その影響とも思われない。
なんとなくあの時代、ニヒリズムというほど上等なものではなく、なにか冷めたことを口にするのが流行ったような気がする。
「映画はたった一つのシーンのために作られる」と思うことがあるが、私が思う前に、多分誰か映画好きな人がすでに口にしていることかもしれない。
ソフィア・ローレンの悲しみの顔のために「ひまわり」はある。
“シェーンカンバック”のために「シェーン」はある。
“さよならリック 忘れないわ”バーグマンのセリフのために「カサブランカ」はある。
雪の引き上げの道のために「赤穂浪士」はある。
雪が降りしきる中、2度目の「雨あがる」を観る。
「何をしたかではなく、なんのためにしたかが大切である」
映画「雨あがる」はこのセリフがモチーフのようである。
現実にはあり得ない話であるから素直に観れば感動するし、ひねくれて見れば批判だらけとなる。
おかしなところはたくさんある。しかし観終わっていい映画だと思った。観終わっていい映画だと思うのはいい映画である。いろいろ考えてはいけない。
「それを言っちゃアお終いよ」は、寅さんがよく口にするセリフであった。
そういえば寅さんの映画はおかしなことばかりである。そもそも寅さんという存在自体があり得ない。だから「それを言っちゃアお終いよ」と言うセリフが必要なのであろう。
「雨あがる」の奥さんは、「それを言っちゃアお終いよ」を言ってしまうのである。
「賭け試合がご法度であることは承知しております。しかしそれを承知の上で、主人が何故賭け試合をしたか。あなた達でくの坊には判らないでしょう」、と仕官の使者にこのセリフを言ってしまう。
この言葉が事の成り行きを好転させるものにならないことは明白である。しかしこの言葉が、叶わなかった夫の仕官の道を開くことになる。
夫を敬い、従順で心優しい妻が穏やかに毅然と啖呵を切る。
その言葉が殿様の心を捉えたのか、夫は剣術指南役として召し抱えられることになる。やはり現実にはあり得ない話の映画には感動がある。
人生はいやなものだらけなのだから、映画はいいところだけ見ていればいいのである。(了)
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