原発汚染水の海洋投棄、使用済核燃料の中間貯蔵施設、最終貯蔵施設の調査受け入れ。このところ原発に関する報道が続いている。
首相は漁業関係者との会談で「必要な予算措置について、たとえ今後数十年の長期にわたろうとも政府全体で責任を持って対応する」と述べた。
いつになく迫力があった。すごい言葉である。「必要な予算措置について、たとえ今後数十年の長期にわたろうとも……」思わず繰り返してしまった。本当だろうか。
山口県上関町は、使用済核燃料を一時保管する中間貯蔵施設の調査受け入れを表明した。賛成者、反対者双方の意見を聞いて結論を出した。
すべて「結論ありき」である。
汚染水は貯まる一方。町は財政破綻、人口減少。中間貯蔵施設の調査受け入れだけで数十億円の交付金が町に入るという。喉から手が出るほど交付金が必要だということであろう。そのことについて批判はできない。
金で解決されるような問題ではないのだが、すべて金で解決される。解決ではなく手打ちである。使用済核燃料の処理には10万年かかるという。人間が解決できるものでもない。問題の本質がお金になっている。
「じゃあ、どうしろというのだ」
いつもこの言葉が突き付けられて、心ある人々はあとずさりするしかない。
しかしどうするかは政治が決めること。国民に問題解決の義務はない。
どうしようも出来ないことにした張本人が「じゃあ、どうしろというのだ」と言うのがこの世の定番である。
何故どうしようも出来ないことにならないように人は行動しないのだろうか。どうしようも出来ないことはどうしようも出来ないことであるからか。
それなら誰でも政治家になれる。だからみんな政治家になっているということであろう。
9月1日が近いせいか関東大震災に関連する記事が多い。今年は100年目である。
朝鮮人虐殺はなかった。そう言われればそうかもしれない。誰も見た者はいない。見たという人も何を見たのか分からない。
みんな無いことになる。そのうち太平洋戦争もなかったことになるかもしれない
久しぶりに前原誠司という人を見た。民主党の議員かと思っていたら国民民主党の人だった。今民主党という政党はないようだ。原発事故の時いつも記者会見をしていた枝野さんはどうしたのだろうか。安倍さんとやりあった野田さんもどうしているのだろうか。音沙汰がない。
政権交代。できるとは思わない。過去に政権交代はあったが政権の扱い方が分からなかったようだ。野党は要らないのではないか、という風潮が出てきたような気がする。 (了)
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