福岡に住む学生時代の友人から今年もトウモロコシが届いた。秋には朝倉の柿を送ってくれる。関東の人間にはなじみのない名であるが、この柿は柿の中でも特に名品だそうである。姿形もよくとてもおいしい。
トウモロコシは以前茹でて食べていたが、最近は茹でたものに醤油をつけて焼いて食べている。焦げた醤油の香りが格別である。
ここ何年か醤油は近隣にある醸造元の物を使っている。値段は量産品の醤油に比べれば倍以上高いが、私のような味音痴でもひとなめしただけで味の違いがハッキリ分かる。
量産品で焼くとしょっぱさが先に来るというか味に角がある。夜店の屋台の味である。それでもそのしょっぱさが癖になっておいしいと思って食べていた。しかしこの醤油で焼いたトウモロコシは同じトウモロコシでも味が全く違うのである。
量産品の醤油で焼いたトウモロコシがまずいということではないが、格が違うのである。なによりまろやかさがあって、それでいて塩味を遠くに感じるのである。
自信をもってあえて言うが、角のある味は間違っている。慣れてしまっているだけのことである。好みの問題と言う人がいるかもしれないが、これはそんなレベルのことではない。
このことは醤油だけのことではない。食料品にはいいものとよくないものがある。誤解を招く言い方であるから、高いものと安いもの、と言い換えることにする。
代表的なものはポン酢だと思う。私は水炊きが好きで若いころは夏でも汗をかきながら鍋を食べていた。タレはもちろんポン酢である。よく聞く価格の安いポン酢である。
そのポン酢でもおいしいと思って使っていたが、あるときある地方の名産といわれるポン酢を口にしたとき、刺激がなく、むせることもないことに気がついた。
ポン酢はピリッと口のなかに刺激を与え、むせるものである。このピリッという刺激とむせることこそがポン酢のうまさだと思っていたのである。
しかしそれは添加物である薬品のなせるものであることが分かった。その後価格の高いポン酢に変えた。今では安いポン酢は薬瓶のように見える。近寄らないようにしている。
高いものだとこういう味になり、安いものだとこういう味になるということが明確に存在している。これは醤油やポン酢に限ったことではない。
この明確な違いは、どちらが正しいかという判断を否定するものではない。やはり正しいものと正しくないものがある。
高いものは正しいことが多い。ただこういう言い方をすると、では安いものは間違いだと言うのか、ということになる。人の好みの問題ではないか、といういつもの分かったようなエラそうな話が出てくる。しかし安いものはやはり間違っている。
同じ品物に高いものと安いものがあるということが本来おかしい。
醤油を例にすれば、醤油を普通に当たり前に作ったら販売価格が高くなって売ることができないという。
そこで一般の販売価格にするには普通に当たり前には作らないことになる。入れるべきものを入れず、入れなくていいものを入れる。品物に高いものと安いものがあるということはこういうことである。
普通に作った醤油は高い醤油になる。普通には作らない醤油は安い醤油ということになる。普通に作った醤油が普通の安い物であればいいのだが、今の時代普通に作ったら商売にならないらしい。普通に作った醤油は特別な高級品になる。変な話である。
安いものは間違いだと言うのは、本来あるべき物とは別物になってしまったということである。大量消費と消費者が買いやすい価格に答えることが企業の使命である。安くするには別物にするしかないのかもしれない。
別物と言えば葛餅である。葛は使っていないというのだから葛餅というのは不当表示ということになる。そう思っていたが、私のほうが不当な指摘になってしまった。
葛餅でなく久寿餅だそうである。昔から葛餅と称したことはないそうだ。誤解するのは消費者の勝手であるということらしい。
醤油とポン酢のことから上には上があるもんだと実感した。日頃食べつけているものは味音痴の私でもよく分かる。できればいろいろ体験してみたいが上には上を体験するにはお金がかかる。
寿司なども銀座の名店とやらで食べてみたいと思うが、味の格を言う前に人間の格を問われるらしい。
醤油とポン酢の違いが分かるぐらいが私には丁度いい塩梅のようである。(了)
コメント