なぜか〝とでん〟を思い出す。もちろんあの路面電車の都電である。
路面電車は都内では都電となるが、市内では市電となる。
今の東京では、早稲田から三ノ輪橋までの荒川線だけと思っていたが、玉電を受け継いだ世田谷線というのもあるらしい。
子供の頃、東京の下町に住んでいたが、家のすぐ隣には都電の車庫があった。当時その街には高い建物はなく、3階建ての車庫事務所が唯一の高層ビルであった。
4歳か5歳くらいの時だったと思うが、台風による洪水でこの建物に避難した記憶がある。母におぶさって避難したのではなく、胸まで水につかって歩いた記憶がある。
当時は汲み取りの便所である。水がひいた後は白い消毒薬が町中に撒かれていた。
都電の車庫は一つの起点であるから、その町から東西南北いろいろ行く先が掲示されていた。日本橋、茅場町、須田町、大塚、洲崎、葛西橋。
まだ一人で乗れる歳ではない。どんな町なのだろうかと思ったものである。
父親が亡くなって、家族4人を引き取ってくれた叔母は、若い頃一人息子を病気で亡くしていた。
神谷町にその子のお墓があって、叔母は幼い私を連れてよく墓参りに行った。
都電を何回か乗り換えるのだが、日比谷の交差点での乗り換えを、周辺の景色も一緒によく覚えている。
都電は、昭和45年頃には荒川線を残して無くなってしまったが、大学2年生の頃まで通学路線であった。
都電が廃止されたころ地下鉄東西線が開通した。
東西線は、西は東京の中野から、東は千葉県の西船橋まで、高田馬場や日本橋を経由して、首都圏を東西に横断する。
まだ学生時代だったと思うが、この沿線の行徳という町に何度が行ったことがある。
その頃から私は冬の景色が好きで、西武線などに乗って郊外の冬木立などを見に行っていたが、東西線の開通により千葉方面に関心を持ったのかもしれない。
多分、車窓からの景色にひかれて下車したのだと思う。
行徳駅周辺はもともと湿地帯である。私が初めて訪れたときには区画整理事業は始まっていたようだが、駅から見渡す景色は、そこら中が掘り返され、水たまりが点在する、荒涼としか言いようのないものであった。
しかしその景色は、訳もなく感傷に浸りたい若い気持ちには格好の風景でもあった。
後年、母と兄の住居地となった。建設会社に就職して初めて大きな仕事を受注した町であり、国家試験の難しさからエスケープした町でもある。
なんとなく下車した地下鉄沿線の町が、結構人生の思い出になっている。(了)
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