高齢者に対して、過去の栄光にすがって生きていくのはやめた方がいい、という書き出しで始まる若い人のブログがあった。
栄光にすがって生きている、というのは若者の勝手な見方である。高齢者は誰もすがってなんか生きていない。
最近の若い人の言葉に何か新しい意味があるかのようにネットなどに掲載されているが、ただ話を裏返ししただけのことである。畳と同じである。
なぜ過去の栄光にすがって生きていくのはやめた方がいいのか。
「過去は過去のことだから。昔のことにこだわったって何の意味もないから」
こんなことしか書いていない。要は高齢者が嫌いということだけである。
年寄りはなんの役にも立たない。社会の邪魔をするだけである。邪魔するだけならいいが自慢話までする。生理的に許せない。こんなところであろう。
高齢者を批判するなら論理的にするべきである。生理的に許せないというのでは筋が通らない。
若い人はいずれ歳をとるものであり、高齢者は昔若者であった。しかしそんなことは若者には通じない。現時点で若者と年寄りがいるだけという認識しかないらしい。
若者は自分が年寄りになることを信じていない。そんな連中に何を言ってもしょうがない。いずれ年寄りになったら分かる。みんなそうやって歳をとってきた。
私は人生に地位や栄光があるということを体験したことはないが知識としては分からないわけではない。
地位や栄光がある人の老後というものは豊かなものであろう。
総理大臣経験者、オリンピックの金メダリスト、大会社の部長経験者。
社長経験者よりも部長経験者の方が自慢話には向いているような気がするので部長経験者と書いた。
みな過去の栄光によって満ち足りた老後を過ごすことができるはずである。
地位も栄光もない庶民はどう生きていけばいいのか。別にそんなことを考えたわけではないが、「過去を振り返ることは認知症のリスクを下げることになる」という記述があった。
昔を思い出すことは認知症の予防になるというのである。昔の思い出は地位とか栄光に関係がなくてもいいらしい。
結婚した。孫が生まれた。日光に行った。そんなことでいいらしい。大した思い出のない身には願ってもない話である。
「世界的にノスタルジアの研究が進むにつれて、昔を振り返ることはけっして病的でネガティブな行為ではなくて、精神的にも肉体的にもポジティブな効果がありそうだということがわかってきたのです」と書いてある。
あまり昔のことばっかり言っているとボケるよ、というのはどうやら間違いらしい。
若者は未来を語ればいいし、高齢者は過去を語ればいい。それでいいんだということはありがたい話である。
このブログにも昔話をもう少し書きたいと思っていたが、昔話はボケによくないのではないかと少し躊躇していた。気にしないでいいというのはいいことである。 (了)
コメント