議論ではまとまらないが金ではまとまる

つぶやき

 仕事をしていた時、事務所の確定申告は税理士に依頼していたが、その人は創価学会員だった。年齢は私より5歳くらい若い。

 ある時、何かのきっかけで創価学会の話になったが、私が創価学会を批判すると、全く的外れなことを言う。こちらは理詰めで話をしているつもりだが、質問にまともに答えようとしない。

 学会員というのはこんな程度のものなのかと少々軽蔑したが、最近になって宗教の信者という者はそういうものだと思うようになって、ムキになってバカな質問をした自分のアホさがイヤになる。

 このところ夫婦別姓や女系天皇に関して、伝統とか昔からの習わしとか、そういうことが否定の論拠になっていることを感じる。

 伝統的な家族制度からして夫婦別姓はありえない。古来から存在する戸籍制度が崩壊することになる。家族同姓によって培われてきた家族の一体感が損なわれる、という主張。

 それらの主張に根拠がなく、説得力がないことはすでに明らか。
 
 女系天皇については、2000年の皇統の歴史からしてありえない、という結論以外にない。男女同権の時代、あってもいいというのが自然である。

 伝統とか昔からの習わしということを論拠にすれば合理性を欠き、場合によっては科学性も欠如する場合がある。そのことは百も承知と思われるが、保守はそれらを論拠とする。なぜなのか。

 伝統、習慣の底にあるものは精神。自由とか論理とか合理性ではなく、抽象的で説明できない精神というものに人は結束し、従順になる、ということを保守は知っているということではないか。それを保守と言うのではないだろうか。これはもう信仰である。 

 山尾志桜里元衆院議員が読売新聞の主張を受けて、「女系天皇の議論を避けつつ、女系天皇の選択肢を排除する進め方は間違っています」とXに投稿していた。

 山尾氏は、国民民主党が今夏の参院選の比例代表に擁立することが決っている。玉木代表はこの投稿に対して、「発言、発信には注意してほしい」と山尾氏に伝えたことを明らかした。

 国民民主党の代表であれば、この発言を賞賛とまではいかなくても、不問にするべきだと思うが、そうではないようだ。

 公明党が自民党に与したことはその体質からして当然のこと。公明党は論理の党ではない。

 維新・国民は自民・公明の仲間になるようである。

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