私は読書家ではないので本に関する思い出はほとんどない。
若いころ読んだものとしては、ドストエフスキーなどの世界名作ものや、日本の社会派と呼ばれる作家の推理小説ぐらいのもので、芥川賞とかの受賞作品などには全く関心がなかった。とにかく難しそうなものはだめだった。
小学校6年生の時、図書室でふと手にした伝記について書いた読書感想文が、東京都のコンクールで賞に選ばれた。
自分で応募したものではなく、国語の授業で読書感想文の課題があり、その時提出した感想文をそれからしばらく経ってから、担任の先生が「コンクールに出します」という話を聞いたのである。
私の感想文は何位かに入賞したらしい。図書室担当の年配の先生が喜んでいたことを思い出す。私はコンクールを目指して書いたわけではないからあまり実感はない。作文など嫌いであった。
朝礼で全校生徒を前に校長先生からお褒めの言葉と賞状をいただいた。大勢の前で褒められたのは私の人生初めで最後のことであった。
私が感想文に書いた伝記の人物は和井内貞行である。十和田湖でヒメマスの養殖を成功させた人物である。(以下失礼であるが尊敬を込めて貞行と記す)
あの頃の伝記と言えば野口英世、キューリー夫人 ファーブル、パスツールであったのに、なぜ聞いたこともない人の本を手にしたのかは覚えていない。とにかく読み始めてみたら面白く、感動的で一気に読んだのだと思う。
十和田湖は昔から魚は生息していない湖である。二つの火山によるカルデラ湖であることから、湖底は他の湖には見られない複雑な構造があるらしく、そのことが魚の棲まない原因であるという。
魚がいないのは神様のなさること、と村の人々は信じている。しかし貧しい東北の村に、漁業による食料確保の必要性を痛感する貞行は養殖を志す。明治の初頭から38年くらいにかけてのことである。
村の人々が神をも恐れぬ所業と批難中傷するなか。それでも貞行は私財を投げ打って、20年もの歳月をヒメマスの養殖にかける。
毎日毎日櫓に登って湖面を見つめる。何度放流しても何年たっても魚は戻ってこない。
それでも待ち続ける何年目かに、静かな湖面の一隅が波立っているのに気がつく。そこには無数のヒメマスの大群があった。
苦労を共にした妻と抱きあって喜ぶ場面が、この伝記の中で一番感動的な場面であった。妻はそれから間もなくして亡くなってしまう。小学6年生の心には深く感じるものがあったようだ。
そのとき1位という他校の生徒の感想文を読んだ。「きけわだつみの声」の感想文であったが、自分の感想文よりその方をよく覚えている。
父親の書棚にあったその本を、題名の意味も分からず読み始めたが、その内容に引き込まれたという書き出しで始まっていた。初めて知った戦争のことについても書いてあった。子供心にもなんといい文章かと思ったものである。
16年前に旅行会社のツァーに参加して東北に旅行したことがある。
仙台まで新幹線で行って、仙台からはバスで東北地方を回るというものである。
確か3泊はしたのではないかと思う。16年前とハッキリ覚えているのは孫が生まれた年であったからである。
ツァーという旅行は好きではない、と私はよく口にするが、行ってみれば煩わしい手配をすることもなく、自分で行ったら気が付かないような所まで連れて行ってくれるし、なにより割安である。こんな楽チンはない。
つまりツァーが心底嫌いということではなく単なる毛嫌いである。
好きではないというツアーに行ったのは、周遊地に十和田湖が入っていたからである。十和田湖には貞行のことから一度は行かなくてはと思っていた。
申し込みさえすれば面倒なことも一切なく十和田湖に行ける。
自分で行くとしたら遠いところである、手配など面倒なことをしていつになるか分からない。それならこの際行ってみようか、ということになった。
この旅行で東北の名だたる名所は訪ねたことになる。リンゴ畑から見る岩木山の美しさには感動した。五能線とかいう列車にも乗った。民話のふるさとという遠野にも行った。死の彷徨と言われた八甲田山にも登った。
最後の泊りの晩のことだったと思うが、ツアーで一緒の人からカラオケに誘われた。
それまで話をしたことはもちろん、挨拶を交わしたこともない人である。
私より少し年上と思われる。どういうわけか親しげである。癌を患わっていると私に話した。
私は「熱き心」を歌った。「イヤー素晴らしい」、と褒めてくれた。帰りの新幹線が別れの場となったがその後どうされたであろうか。
私は十和田湖に着いてから団体から離れ、貞行のゆかりの地を訪ねた。
添乗員は「勝手なことをされては困る」と言ったが何とか説得して、ではご勝手に、となった。
添乗員は貞行のことを知らなかった。その恥ずかしさもあって自由行動を認めたのかもしれない。貞行を訪ねずして何のための十和田湖か。
貞行がいつもここから湖面を見ていたであろうと思われる湖岸に立ち、遠い時代に思いを馳せた。来てよかったと思った。
掲載の写真はここから撮った十和田湖の風景である。
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