言葉の重み 

つぶやき

 パー券のキックバックというのは要は「お小遣い」であると言う評論家がいた。まあそういうことだろうなと思う。
 あまりよろしくない親分が「これでも持ってどこかで遊んで来い」と札束をわしづかみにして子分に投げ渡すシーンが映画などによくある。子分に小遣いをやることが親分である。どんな世界でもそういうことになる。

 政治の世界では小遣いであっても政治資金収支報告書とやらに記載しなければならないらしい。派閥から「記載しないでもいい」と言われたから記載しなかったという議員も現れた。「俺のせいじゃない親分のせいだ、と言っているわけである。好きなように使えと子分に渡した小遣いが問題になるようなら、親分が面倒みなければ恰好がつかない。

 しかし一国の政治の問題である。何人もの閣僚が更迭とか辞任とかの騒ぎになっているのであるから派閥問題ということではない。
 日本の社会はこんなことをしている場合ではないと思うが、しっかりとしっかりと、というばかりで少しもしっかりしていない。

 世界では殺し合いが続いている。パレスチナ自治区ガザ地区の惨状は正視できるものではない。市民を殺すことはあってはならないことだが、もはやそんなことは通用しない。ロシアはウクライナの生活基盤に対する攻撃を続けている。戦争とはそういうものであった。アメリカは日本人を焼き殺すために焼夷弾を作った。誰も人道を語れるものはいない。

 ガザ地区の病院で活動していた「国境なき医師団」所属の中嶋優子医師記者会見を見た。
 「ここまで戦争の破壊力を思い知らされたことはなかった」
 「覚悟を決めた夜があった」
 「あまりにも自分たちが無力だと感じた。懸命な医療を行ったが、一人一人のその後       の人生まで考えると不十分だと感じていた」
 自らを危険に置きながら医療に携わった医師が無力だと言う。この言葉は重い。想像を絶すること行われているのであろう。 ()





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