観光地の貧しさ

つぶやき

 昨日山中湖に行った。「ほうとうを食べに行こう、しかしおいしい店がないからなー」などと言いながら車を走らせた。圏央道が中央道と繋がったのは何年前であろうか。以前は八王子インターに入るまでが大変だった。

 中央道から見る山肌は茶色が目立つ。幸いこのところ雪が降ったような様子もなく、山中湖まで快適なドライブであった。

 途中談合坂で休憩をとった。ここの売店においしいパン屋さんがある。お昼にはほうとうを食べる予定なのだがパンを4つ5つ買った。いつもは大変な混雑となるサービスエリアだが、多くの人出はなかった。

 河口湖の出口を通過してそのまま山中湖方面に進んだ。忍野八海の店でほうとうを食べるつもりだったのである。ほうとうは山梨名物とされているが、これが名物とあっては山梨も大したことはない、と言っては失礼だが、農家の日常的な食べ物である。

 妻の父は山梨出身であるからほうとうが好きであった。子供の頃からよく食べていたらしい。妻の母は北陸の魚のうまいところに生まれ育った人である。結婚して何より嫌だったのはこのほうとうだったらしい。

 昨晩食べ残した、あるいは翌日の分も多く作るのかもしれないが、それを翌朝食べることが本当につらかったとよく言っていた。
 生きのいい魚を食べて育った人には、あのべちゃべちゃな食べ物の存在が理解できなかったらしい。

 忍野はかなりの賑わいであった。すれ違ってみると、ほとんどの人が外国人のようである。中国語と思われるような声が飛び交っていた。
 半分くらいの店が開いていたようだ。目当てにしていたほうとう屋さんは閉まっていた。結局忍野でほうとうを食べることはあきらめた。

 忍野に来たのは初めてではない。3、4回は来ている。来るたび思うのは土産物屋の多いことである。小さな湧き水の池が点在し、それを忍野八海と呼んで景勝地になっているが、訳の分からない土産物屋がひしめいている。

 一番深いとされ、誰もが見てみたいと思う池は、ある土産物屋を通らなければ行けないようになっている。何年か前までこんなことはなかった。通りからすぐにその池に行けるようになっていたのである。以前あった通路は遮断されている。風景も土産物屋の経営者も実にせこいところである。なに饅頭だ、なに団子だと日本の観光地は悲しくなるほど貧しい風景が続いている。

 何年か前、日本一のあんずの里という信州の町を訪ねたが、そこで売っていたものはトルコ産のあんずを加工したものだった。こんなの変だよねー、と言いながら店を後にした。忍野の売店の品も同じようなことになっているのだろう。そもそもこの地域には名産品がない。

 結局お昼は談合坂で買ったパンということになった。なにも観光地に来たからと言って名物なるものを食べる必要もない。

 河口湖の周辺にはほうとうを専門にする大きな店が何軒もあるが、店が立派であればおいしいというものではない。

 シーズンともなれば「せっかく来たんだから食べていこう」という客でごった返すようだから、手際だけはいいが味は今一つである。

 山梨の人が食べたら「こんなもんじゃない」と言うかもしれない。つつましい農家の食べ物を名物にしたが、どんなものにも本物と偽物はあるものである。

 忍野村を抜け、二十曲り峠に向かって大きくカーブを切ったところに妻の妹の家がある。現代風合掌造り、とでも言うようなお大きな家に妹は夫と20年近く暮らしている。

 妻とは2つ違いであるが、このところ物忘れがひどくなっているようだ。その様子を確認したい気持ちもあるのだろう、妻が寄りたいと言う。

 忍野に妹が住んでいるのだから最初から行けばいいのだが、妹も自分のことが分かっているのか、人が来ることを最近では喜ばないようだ。

 そのこともあり、いるかいないかも確認せず、とりあえず行ってみることにしよう、という気持ちだった。

 あいにく2人ともいなかったが思いもよらず甥っ子がいた。私の娘の孫より一つ上であるから17才。何年振りかで会うが大きくなった。

 祖父たちが留守であることを告げ、あがって下さい、と大人びたことを言う。私たちは家には上がらず立ち話で妹の様子を甥っ子から聞いた。
 だいぶ症状は進んでいるということだった。10分くらいで私たちは妹の家を後にした。

 いい正月にしたいが、周囲がどんどん変わっていく。
 近所の友人の奥さんから妻に電話があった。友人は介護施設に入所しているが、その施設に奥さんはこのところ寝泊まりしているという。夫を看取るために医師から許可されたということであった。

 自分が分からなくなっていく妻を見守る義弟。自宅を離れた施設で長年連れ添った夫を看取る友人の奥さん。みんな覚悟しなければいけない人生の時期を迎えたようだ。(了)

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