夫婦別姓、同性婚の問題がクローズアップされている。
岸田首相は「全ての国民にとっても家族観や価値観、社会が変わってしまう課題だ」と述べた。結婚を国の制度としてのみとらえると首相のような発言になる。
しかし夫婦別姓、同性婚の問題は個人の生き方の問題である。このように理解している国は多い。
本来個人は自由であるという認識がある。しかしこの言い方は正確ではない。
人間の歴史を見てみると、本来個人は自由ではなかった。個人は自由であるというのは不変の原理ではなく一つの思想である。
民法の財産編は、本来個人は自由であるという思想を前提として制定されたものである。だから民法財産編には定義規定が少ない。
自由に何をやっても私法上の効果を認めるが、こういう場合は効果がない、ということを規定しているだけである。効果がないとは、国が力を貸さないということである。
何故そういう構成をとったかと言えば、国民個人の財産に関して国は手間のかかるようなことはしたくないし、関心がないからである。
しかし家族や相続に関する民法身分編は、個人は自由であるとする近代国家としての体裁は掲げながら、その実体そのものに法律効果を認めない。
それは国のあり方は家族制度のあり方によると認識しているからである。従って定義規定だらけとなる。
自由な実体とは、例えば結婚は両性の事実状態そのもののことである。その関係から子供が生まれればその事実である。
結婚を制度にするということは、自由に何をやってもいいが、制度に定める手続きをしなければ、法律が定める法的利益を与えない、ということである。
公明党の副委員長とかいう人が憲法の「婚姻は両性の合意のみによって成立し」という規定は、同性婚を否定するものではない、という談話を発表したらしい。
何を寝ぼけたことを言っているのであろうか。憲法の規定は同性の婚姻など想像もできないときに作ったものである。こんなことで、自民党よりは進歩的である、と言いたいのであろうか。結婚は男女がするもので、それ以外の態様はありえない、というのが憲法の前提である。
実体は想像を超えているようである。先日世界における状況を報道した番組があった。同性婚は当然のようであり、一夫多妻は昔から聞くが、今は多夫一婦ということも日常的らしい。
日本人の目からは何かなんだか分らない。男性なのか女性なのかもわからない。性というものが滅茶苦茶である。一夫一婦などにしたら人生面白くない、とでも言いたげである。
民事法というものは、国民が求めるなら国が力を貸す、というものである。
国の力を借りることはないから自由にさせてくれ、ということならそれを認めればいいと思う。
家族制度は国民の権利の保護というより、国民の管理ということに重点を置いた制度なのである。
岸田首相は、夫婦別姓は国民のためにいい制度なのだろうか、と疑問を投げているが、まやかしである。なんでもすぐに慣れてしまう国民性であることは、政治家が一番よく知っていることである。
家族制度を国民の立場からではなく、国民を管理するという立場から定めるとすれば、夫婦別姓は認めるわけにはいかない。
夫婦別姓にしたところで、家族観や価値観、社会が変わってしまう、ということはない。なにか大変なことになると言っているだけのことである。
どうも夫婦別姓というような家族制度に関しては、どこかの意志が働いているようである。政治家が一番気にするのは選挙である。
夫婦別姓を推進すると政治家生命に関わるとすれば、誰も積極的になる人はいないはずである。(了)
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