補聴器は高い。メガネは量販店に行けば5,000円で作ることができるのに、補聴器は40万円から100万円以上もする。メガネと補聴器を比較することはおかしいのかもしれないが。
値段の違いは騒音に対する技術だという。高額な補聴器にはマスキング機能がついていて、騒音だけをシャットアウトすることができるらしい。
仕事を辞めた残りの人生、補聴器にそんな金をかける必要があるのだろうか。補聴器は社会性を保つためにも必要なものだとされる。もともと人の話を聞くような人間ではないし、人と話をすることもなくなった。社会とのつながりがそれほど大切なものとは思わない。
残りの人生に必要なものは補聴器よりも犬ではないか。聴きたくもない話を聞くよりも、犬を話し相手にした方が人生充実するのではないだろうか。
例えば前立腺がんステージ4と告知されたらどうするか。年齢との関係においてである。
そうなってしまった知人は、「なんの治療もしない」、という道を選んだ。私と同じ歳の77歳である。私はその選択をするだろうか。
80歳近くになって発症したがんと闘って生き残ったとして、その後何があるのか。彼が選んだ道は、「生き残ったところで何もない」、ということになる。
私が脊髄症と腰部狭窄症の手術をするとき医者は、「人生100年の時代ですから手術をしてもいいかもしれない」と言った。先行き短ければ手術してもしょうがない、ということである。
2年前のがんの発症以来、医者と家族に支えられての人生であった。
幸い今のところ転移・再発はなく、残りの人生を「残りの人生」にすることなく生きてこられた。余命ではなく、あれこれ残りの人生を考えることは贅沢なことなのかもしれない。
2週間前ほどから借りている補聴器を試している。先日さらに精度を上げるために調整した。すべてコンピューターによる調整である。
長い時間の経過によって聞こえなくなったものをいっぺんに精度を上げてしまうと脳が受け付けないという。少しずつあるべき状態にするのだそうだ。
年寄り臭く見られたくないので久しぶりに若い格好をして出かけた。補聴器屋の店長さんが「イヤーお若いですね。格好いいですね」という。こういう社会とのつながりは大切なものである。やはり補聴器は買った方がいいかもしれない。
学生時代の友人が昨年6月に亡くなっていたことを夫人からの寒中見舞いによって知った。オートバイによる事故死ということである。
彼はかなりひどい難聴であった。詳しく話を聞くことはしなかったが、難聴とオートバイ事故。なにか関連があるような気もする。
地方公務員であったから60歳から残りの人生であった。残りの人生の達人であったかもしれない。元気なスポーツマンであった。ご冥福を祈る。(了)
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