きのうテレビを見ていて気がついたことがある。行司は力士の呼吸を合わせて立ち合いを成立させるものと思っていたが、そうではなかった。
NHKのアナウンサーが制限時間いっぱいになると、「合わせる行司は式守勘太夫」などと言うのでそのように思っていたが、合わせていないのである。
行司は時間いっぱいになっても、力士の立ち合いに関して何もしていない。力士が立ち上がるのを、軍配を縦にしてひたすら待っているのである。
力士両者が立ち上がった時に、「はっけよい のこった」と言っているだけである。
これはどういうことなのか。「相撲の勝敗の8割は立ち合いで決まる」と言われている。立ち合いが大事だとテレビの解説者も言う。
立ち合いに行司が関与しないとしても、力士による呼吸合わせが公平なものであればいいが、立ち合いには次のような問題がある。
「東方の力士が両手をつき、西方の力士が右手をついて、次いで左手をつくと、その左手をついた瞬間がスタートの合図となる。つまり、後から手をつくほうが立ち合いのイニシアチブが取れる」。力士たちは呼吸を合わせていないのではないか。
現在当たり前のように行われている仕切り。力士がかがんで両手を土俵につくというスタイルは、相撲本来のものではないらしい。
両国国技館を新装した時、国技としてカッコいいものにしようということから始めたことのようだ。
昔は中腰のまま立ち合うのが多かったから、相撲と言えば見ごたえのある四つ相撲ということであったが、力士たちが低く身構え、その姿勢から一気に立ち上がっていくという現代の相撲は、四つ相撲の面白さをなくしてしまったという批判がある。
わずかでも先に立ち上がった方が有利になる。
戦後、幕内力士の平均体形は、身長が7センチほど、体重は40キロ以上も増えたと言われているが、土俵の大きさは変わっていない。身長185センチ、体重160キロという男たちが、あの狭い土俵でぶつかり合う。先にぶつけた方が衝撃度が大きく有利なのは当たり前である。
行司という他のスポーツでいう主審が、勝負のスタートに関与しないというのがそもそもおかしな話である。勝負の開始を審判者を除外して当事者で決めるということは珍しいことらしい。100メートル競走を考えればよく判る。
行司とは何なのか。主審でありながら決定権がない。狭い土俵を逃げ回っているようである。
裸の男を前にして一人きらびやかな衣装を着ている。相撲は神事というなら白装束でやったらどうだろうか。
相撲における行司の立ち場というものがどうもあやふやである。
行司は、「両力士が土俵に上がってから競技を終えて土俵を下りるまでの一切の主導的立場であり、競技の進行及び勝負の判定を決する」と審判規則にある。
ところが、「勝負の判定ではどんなときでも東西いずれかに軍配を上げなければならない」という審判規則もある。つまり行司は、同体取り直しを命ずることはできないことになる。迷っても自分の意志に反した判定を強いられることになる。
「ヒゲの伊之助涙の抗議」という事件を知ることになった。
昭和33年秋場所初日、栃錦と北の洋の1戦。19代式守伊之助は、行司差し違えの審判に激高し、トレードマークのひげを震わせ、両手で土俵をたたいて抗議するという前代未聞の行動をとった。伊之助は行司の規則に違反したとして謹慎処分を受けることになる。
ビデオのない時代であったが、分解写真では明らかに伊之助の判定通りだったという。
立ち合いに関与できない。勝敗の判定に決定権がない。判定を強いられる、判定を覆される。力士の下敷きになることもある。
行司というのは理不尽な立場である。
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