家内は蔵前へ出かけた。絵の先生の個展があるらしい。
蔵前と聞いてすぐ思い出すのは蔵前国技館。昔は相撲放送と言えば、「蔵前国技館からお送りしました」というアナウンスであった。
蔵前の名称は知っているが、詳しい場所が分からない。隅田川沿いだろうという印象がある。
地図で調べてみると、浅草橋から浅草に向かう真ん中あたり、隅田川に面している地域である。通過してしまうところである。
東京の下町育ちであるから浅草橋、両国、錦糸町、亀戸などと言う総武線の駅名を見ると懐かしい。
両国の北側を本所、南側を深川と言う、という記述を読むと、単なる地域のことであるが、なるほどと感心してしまう。
浅草橋の次の駅は両国橋を渡って両国である。浅草橋という橋は隅田川にかかっていない。調べてみたら神田川に架かっている橋であった。
浅草は江戸時代からの繁華街であったが、総武線はなぜ浅草を通らなかったのだろうか。浅草橋から浅草まで2キロ近くある。浅草橋に電車が停まるたびにそんなことを思った。
両国は「りょうこく」と呼んでも「りょうごく」と呼んでもいいらしいが、地名としては「りょうごく」である。
なん年か前まで「両国の川開きと」言った。今の隅田川花火大会の元祖である。
昔、隅田川が武蔵国の下総国との国境であったため、両国橋(大橋と言ったらしい)はその両方の国にまたがることから両国橋となった。
本来、両国とは、隅田川西側の武蔵国側、つまり江戸市中から隅田川を渡らない地域一体の名称であるらしい。
隅田川を渡った旧下総国側(現在の墨田区側)が本所、深川として開発されて以後、この地域には東両国あるいは向両国(むこうりょうごく)と名称がつけられたそうだが、旧来の下町(神田、日本橋、京橋)からは、両国の本家はあくまでこちら側であり、あちらは「川向こう」と見下していたようである。
下町とは今で言う江東区とか墨田区あたりを言うのかと思っていたら、江戸の大名屋敷の町からすれば、日本橋や神田などは庶民の住む「下町」ということになる。その下町がさらに下町を生んだことになる。下町とはそういうことかと納得した。
「江戸っ子」とは、神田とか日本橋といった江戸市中で生まれた人だけではなく、川向うの人も含めた言い方である、という説があったが、神田生まれの人達の反発は大きいらしい。
江戸時代、松の廊下事件の後、吉良上野介が江戸城内から隅田川を越えた両国界隈に屋敷替えをさせられたのは、「川向うは江戸城内に非ず」ということで、赤穂浪士の討ち入りを黙認するためと、いう説がある。
両国駅のそばに回向院という寺院がある。江戸に大災害が起きたときの死者の収容先であった。
大相撲はこの寺院での奉納相撲を始まりとするらしい。国技館は旧両国国技館から戦後蔵前国技館に移り、また両国に戻った。できたばかりと思っていたらすでに40年経っている。
両国と言えば国技館より、両国橋たもとの「もゝんじや」が懐かしい。
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