多分このブログに何度も書いたことだと思うが、「みんないなくなってしまった」、という言葉が心に響く。
きのう、7月に夫を亡くされた家内の幼友達から電話があった。家内が送った見舞いのお礼のようである。
幼友達の家は家内の実家と近かったことから、子供の頃から家族ぐるみの付き合いであったらしい。
父親は大きな金庫会社を経営していて、4人の子供と、そこで住み込みで働く従業員の人達で、大きな屋敷はいつも賑やかであったという。
裕福な家庭であったのだろう。家内もよく遊びに連れ出してくれたらしい。ずいぶん可愛がられたようだ。むかしの東京の下町にはそのような面倒見の良さがあった。
家内が懐かしさから思い出すまま人の名前を挙げるが、「亡くなった」、という返事ばかり。「では奥さんは」、「ご主人は」と聞けば、「その人」も、ということだったらしい。みんないなくなってしまった、と幼友達は寂しそうに言う。そんな話を家内から聞いた。
母の父は私が5歳くらいのときに亡くなっている。おぼろげに葬儀の記憶がある。母の母は私が18歳の時に98歳で亡くなった。祖母の葬式の時、「おとっつぁんもおっかさんもみんな死んでしまった」という母のつぶやきを覚えている。その時母は50歳を過ぎていたが、親の死というものはそれほど悲しいものであるのか、と私は母を見て思った。
生きる方法にはいくつかあるだろうが、よく言われるのは「自分らしく生きる」と、「好きなように生きる」である。同じことを言っているものと思うが、どういう生き方になるかは自分次第である。「自分」によっては良い生き方にも悪い生き方にもなる。みっともない生き方になる場合もある。
私は自分らしく生きてきたと思っている。短気であるからよく転職をした。なまじ変な正義感があるから家族を犠牲にしてまで不正と戦った。人間に人の好さを見出すことをしないから、人との付き合いが下手である。そしてみんないなくなった。
しかしいなくなった人はみんなあまり品性のいい人たちではない。そういう人は「みんないなくなった」人の中には含まれない。いい人はみんなそのままである。
嫌な人間と関わっては自分らしく生きることはできない。
嫌な人からは離れる以外にない。収入のために嫌な人間と関わることになるが、収入をあきらめても嫌な人間とは関わってはいけない。収入のための人間関係が一番自分をだめにする。ではどう生きるか。自分らしく生きればいいのである。
嫌な人間関係を持つ必要もなくなり、何が自分らしい生き方なのか何度か考えたことがある。しかし所詮つまらない人生を送ってきた者に、素晴らしい何かがあるはずはない。今まで生きてきた通りのことが自分である。自分探しなどというものは嘘っぱちだと思う。最近は自分らしさなどどうでもいいことだと思うようになった。思ったようにしか生きていけないのであるから、それ以外に自分らしさがあるはずはない。
食べていくために頭を下げなければならない人が一人もいない、というのが老後のあるべき生活である。実に晴れやかなものである。
私はあまり人間が好きではないから、自分らしい生き方をするには人と関わらないことである。しかしそれは孤独ということではない。(了)
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