考える足の方がいい

つぶやき

 今朝4時過ぎに「94歳スキーヤー1級合格 次なる目標は100歳」というニュースがあったが、当人のコメントがなかなかいい。

 「絶対にこれは感激ですよ、スキーヤーにとっては。 スキーをやらない人は多分何も思わないと思う。 自分の娘が来てこれを見せても(認定証)『あ、そうなの』って感じだった。 スキーやる人には努力したなという感じをもたれる。努力しました」

 「やらない人には判らないがやる人には判る」
 簡単な言葉であるが、「判らない」ことと「判る」ことの間に、それこそ人生の価値とも言うべきものが存在していることを感じさせられる。

 精神か物質か。もちろんここに語れるような知識はないが、目線を下げて、人間はもともと空っぽなものであるから、いろんなことを取り込んだほうがおもしろいし楽しいに決まっている、と考えた方が人生楽に生きられる。

 しかし人間にはそういうこととは別に飽きるとか厭世観とか面倒くさいとかいうものがある。そういうものが結構行動の妨げになるものである。

 外部的なものに興味を持ち行動すればストレスもたまることもなく、元気に暮らしていけそうだが、あまりものを考えると人は鬱になってしまう。

 要はなんでもいいから興味をもって体や頭を動かしていれば健康にいいということはどうやら定説である。
 94歳のスキーヤーに「要は何でもいいから」と言っているわけではない。この人は認定式の時、高揚感に溢れた実にいい顔をしていた。

 いまのところ私にはそんなことはないが、やはり悶々と物事を考えるような生活はダメなようだ。しかしいろいろ人生を考えることが鬱につながるというのもさみしい話である。

「人間は考える葦である」というのは足のことであったと思う方がいい。

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