このブログは闘病記として始めたのであるが、肝心の病気に関する記述が少ない。手術も終わり、長い経過観察の期間に入ったが、今のところ悪い結果も出ず何の変化もない。
そんなことから、仕事をやめなければよかったな、と思ったりもして、病気であることの実感が薄らいでいる。闘病記が少ない原因である。
しかし喉頭がんの手術からまだ5カ月である。5年も続く経過観察のほんの始まりであり、これからどうなるか分からない、というのが癌である。
これからどうなるか分からない、ということは家族にはあまり言えることではない。家族にしてみれば、「癌は全部取ったじゃないですか」、ということになっている。頚椎症の歩行困難も「歩けるだけいいじゃない、歩けない人がいっぱいいるよ」ということになっている。
家族の同情を引く気はないが、家族にしてみれば病気から離れたいという気持があるだろうし、安心したいという気持ちもあるだろう。当然である。しかしこんなやり取りができるのは幸せなことだと思う。早期発見のお陰か。
このまま再発だの転移だの、いやな言葉を聞くこともなく過ぎてくれればと願うばかりだ。
金融庁の2,000万円問題以来老後破綻が取りざたされている。ネットで老後破綻と入力すると「老後破産ではありませんか?」と聞いてくる。
先日のテレビでは老後破産を特集していた。破産は破綻の一つだろうが、より身近で具体的問題にするには破産に限った方が視聴者に分かりやすく、訴えやすい、ということなのかもしれない。
老後は破綻するものである。健康においてもお金においてもである。破綻は老後に限ったものではないが、老後は破綻しやすいから社会保障制度がある、ということだろう。しかし「若いうちから老後の資金を貯めておかなければいけません」などという記述を目にすると、この社会はなんという社会なのか、と思う。
年金だけでは老後暮らしていけない、という話は今初めて聞くことではない。
年金だけでは老後暮らしていけないから70歳過ぎても働く、という人は大変といえば大変であろうが、それで暮らしていければ幸せな人である。大変なのは年金以外に全く収入のない人である。暮らしていけない金額で暮らしていかなければならない。どうするのだろうか。
金融庁の2,000万円問題が何を意図したものであったのか知らないが、まさか、年金だけでは老後足りませんよ、と国民に注意することが目的ではあるまい。
この国の民事行政には、「国民のために施策をするが、国に迷惑をかけるなよ」、という基本姿勢がある。
その民事行政は、その昔、近代国家の体裁として先進国の制度を取り入れたもので、市民の立場から作られたものではない。市民が造った国ではないから見つめる先に市民はいない。
国にかかる費用は国民が負担する。当然のことである。しかしそれをそのまま納得するわけにはいかない。なぜか。やはり税金の使い道に関してぬぐいがたい不信があるからである。
国会議員たちはよく血税というが、国民が血と汗で働いて納めた税、という意味ではなく、国民から血が出るまで搾り取った税、という意味であることは誰もが感じることである。若くして当選した議員が、当然したら外車を買いたい、と漏らしたことはあきれて返す言葉もないが、これに類する多くの議員たちの言動は目に余る。
破綻しているのは年金制度である。国家が破綻に向かっているのである。
年金の破綻が指摘されはじめたのは50年も前のことである。少子化問題は昨日今日に始まったことではない。
支給開始の繰り下げなどの政策とは言えない対症療法だけで、なんの手立てもされていない。
産婦人科医は、負担が少く収入の多い診療科目に看板を変える。それが人の常であり自然の成り行きである。政策とは、産婦人科医が産婦人科のままでいた方が儲かる、と考えるようにすることである。
75歳からの年金の繰り下げ制度において、5年経過すると時効で消滅する支給分なるものがあると聞く。時効制度というものは市民間の権利の調整制度であって、国の権力行為に適用されるべきものではない。これに限らず市民保護の法制度を国も利用している。これはおかしいことである。(了)
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