最近叔母夫婦のことを思い出す。父が亡くなって生活に困窮していた私たち家族を引き取ってくれた叔母夫婦である。
母の姉が叔母であるから、叔父夫婦ではなく叔母夫婦としている。
叔母は明治35年生まれ。75歳くらいの時、あの死亡退院の多い悪名高き八王子滝山病院で亡くなった。
叔父は叔母が亡くなる4,5年前にガンで亡くなっている。叔母より2歳くらい年下だったと聞いている。
叔母も叔父も高齢になって、貧乏な中で死んでいった。
私たち家族を引き取ったころが、人生の絶頂期のようだった。
叔父は商売を始めても、ことごとく失敗するような人であり、社会福祉の仕事に生きがいを見出すような人だった。
運よく銀座の名のあるレストラン経営者の知遇を得て、東京の下町駅前にケーキ販売を兼ねた喫茶店を始めたが、それが当たった。
クリスマスには、住まいの方まで山積みにしていたデコレーションケーキがすべて売り切れとなった。
叔父は保護司となり、店のことには一切タッチせず、刑務所帰りの人の面倒を熱心にみた。叔母は連日、温泉旅行と日本舞踊や琴など習い事に熱中していた。
喫茶店の地が区画整理で移転することになったことが、叔母たちの転機となった。大半の人は新たに建設された駅前共同ビルに入居したが、叔母夫婦は全く別の地に引っ越すことにした。いつまでも下町にいたくないと言っていたが、移転先のビルの権利を買うまとまった金がなかったらしい。
新たな地で喫茶店を続けたがうまく行かず、家賃を滞納して3年契約の期間満了を待たずして追い出され、さらに移転しなければならないことになった。
再度の店も思ったようにうまくいくはずもなく、今まで「マダム」であった叔母が、70近くにもなって店に立つようになった。
年寄り一人の喫茶店の居心地よかったのか、学生がよく店に来ていた。
そのうちの卒業生が叔母を結婚式に招待した。「学生時代世話になった、行きつけ喫茶店のママさん」、という事らしい。場所は帝国ホテル。
この学生の父親は、新宿の駅周辺に多数のビルを有する不動産会社の社長であった。
叔母はその時着ていくものがなかった。金目のものはとっくに質屋に入って流れている。
しかし叔母は着物を新調した。その着物を着て帝国ホテルに出かけた。
あの日のことを私はよく覚えている。叔母の人生最後の晴れ姿であった。
しかし着物は結婚式の後すぐに質屋に入ったことを母から聞いた。たった一日の華やかな訪問着であった。
70歳を過ぎ、また家賃滞納もあり、店を閉めることになったが、アパートも借りられず、住むところもないという状態であった。結局保護司の関係で刑務所帰りの更生施設の管理人となった。
叔父も叔母も高齢になったときの生活をどのように考えていたのだろうか。年金を払っていたとも思えない。本当に何を考えて歳をとっていったのだろうか。
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