義兄が亡くなって1年が過ぎた。5年前妻を見送って後しばらく一人住まいをしていたが、その後父母とも暮らした千葉の家を処分し、息子の住む松本の小さなアパートの一室に転居した。
ひとり暮らしは苦にならないと言っていた義兄であるが、山好きで読書家であったからか、残りの人生を信州の山々と松本の町の佇まいに託したのかもしれない。
亡くなる10年近く前に膀胱がんを発症したが、病状がさほど進むこともなく、はた目にはそれを克服して元気に生活しているように見えた。
転居後すぐに松本の山の会に参加し、「メンバーの中で僕が一番若いんだ」と時折楽しそうに家内に近況を伝えていた。
しかし病魔は転居して2年もたたないうちに、今度は血液のがんとして現れた。医者から、治療の方法がない、と告げられた時はショックだったようだ。
孫の成長を見届けることもできず、信州の山々を堪能することもできず、79歳で亡くなってしまった。
先日偲ぶ会を行った。とは言っても親族だけ7人の集まりである。一人息子家族と2人の妹家族である。あの賑やかな家族がこんなに寂しくなってしまった。
その席で息子が、「父の友人が何人も松本を訪ねてくれて、父の通った居酒屋の亭主に挨拶に行ったり、父が散歩した松本城の道を歩いてくれた」、という話をした。
義兄が松本でどんな暮らしをしていたのか、それをたどり、義兄に思いを馳せたいということだろうか。昨年納骨後も、6人の友人が墓地を訪ねてくれた。
私は墓参の話も松本での話も、それを聞いたときは驚いた。素晴らしい話だと思った。そして感動した。義兄が歩いた散歩道を歩いてみたいという人の気持ちは、並々ならぬ心情がなければ思い浮かぶものではない。
義兄は中学校の教員であった。穏やかな人柄から人に愛されたと思うが、この人たちから、尊敬された人間であったことを知った。義兄も同僚の人たちも、教員とはなんと素晴らしい職業だろうかと思う。
義兄の子は男子1人である。幼いころから性格のおとなしい、悪く言えばぐずぐずした子供であった。義兄が「いつも訳のある女性とばかり付き合っているんだ」と言ったことがある。
その子も40代の半ばを過ぎた。東京の美大を出て、デザイン会社勤務を経て、今は松本の市街を離れた山間の村に工房を設け、妻と共に靴の製作やデザインの仕事をしている。5年前に生まれた子が、その村で18年ぶりの新生児ということだから、どれほどの田舎であるか良く分かる。
学生時代のことであったか卒業間もない頃であったか、彼のガラスを素材にした作品がある大手商社の社長さんの目にとまり、その会社の受付に飾りたいと購入の申し込みがあった。義兄は息子と搬入作業をしたらしいが、その様子を嬉しそうに私に話したことがある。
美大出身者に限らないが、芸術関係で食べていくことは難しい。
美大に進学するという話を聞いたとき私は義兄に、その子のためにお金を貯めておかなければいけない、と忠告した。
義兄はその意味が分からなかったのか、そのことに関心は見せず、本人がやりたいと言っているのだからそれが一番いいことだ、という話で終わってしまった。
息子は遅い結婚だったが、いい伴侶に恵まれた。
偲ぶ会に出席した私の息子が、「彼もずいぶん落ち着きが出てきた」ということを言っていた。なにか感じるものがあったのであろう。
妻の実家は資産家であったから、義兄が有していた相続財産はかなり高額なものであったと思われる。詮索しているのではなく、甥である子の生活が少しでも豊かになることに安心するのである。
子孫に美田を残さずというが、残りの人生に無駄使いをするよりも、子孫に美田を残した方がいい。義兄は私が言うまでもなく、分かっていたようである。(了)
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