3日の新聞のコラム欄にバイオリンの弓についての記載があった。
バイオリンの弓はブラジル産のフェルナンブーコという木で作られたものがいいとされているのだが、その木がなくなりつつあり、輸出規制や密輸とかいろいろ以前から話題になっている。
そんなことが書かれたコラムの後段に、バイオリン奏法に触れている個所があった。
バイオリンは弓を持った右手首の使い方がいかに大事であるかを述べているのである。筆者はたぶんバイオリンを弾くのだろう。
右手首の大切さなどということは、バイオリンを弾く人でなければ言えることではない。
指や爪で弦をはじくギターなどの楽器の場合は、はじいたときの弦の振動がその楽器の音となるが、弓によつて弦を弾く場合、弓は常に弦の上にあるから弦の振動を止めてしまうことになる。
弦の振動をスムーズに継続させるには、弓の均一な動きと弦に対する均等な圧力が大切であり、その際柔らかな手首の動きが必要不可欠となるのである、と口で言うことは簡単なのだが、なめらかで柔らかな手首の返しは難しいものである。
手首はバイオリンなどの楽器に限らず何事にも大切なものである。野球も卓球もゴルフもボクシングも、手首の動きや柔らかさによってスピードや強さに影響する。
塗装屋の刷毛の動きにも手首の使い方が何より大切だそうである。
医者は手首で脈をとり、警察は手首に手錠をかける。それだけ人間の動きに影響し、人間の動きを制する大きな役割を持っているということであろうか。
バイオリンは中学1年生の時に初めて手にした。古道具屋から買ったもので、今思うとバイオリンとは言えない代物だったかもしれない。
学生時代に働いてドイツ工房の新作を買った。社会人になってから何本か買ったが、今思うとずいぶん無駄遣いをしたと思う。
テレビのバイオリン教室を参考に練習した。鷲見三郎さんや江藤俊哉さんが講師をしていた。このテレビ教室が私のバイオリンの大きな失敗となった。
テレビで見る弓の動きを真似たつもりなのだが、思い込み違いをしてしまったのである。以後納得のいかないまま、しかしこれでいいのだと自分に言い聞かせ何十年もたってしまった。
60才を前に、老後の楽しみのためにキチンとバイオリンをやり直そうと、何人かの先生に就いたがあまり得るものはなかった。
70歳近くになって同年配でプロのオケを定年退職した人に巡り合った。彼は私の思い違いを適格に言い当てて是正してくれた。
つまり、弓がしっかり弦をこすっていない。半音の時は指と指をしっかりくっつける。全音の時はしっかり離す。腕の恰好はどうでもいいからいつも弓が弦にしっかりくっついている腕の状態にする。それだけのことである、というのである。
いずれも「しっかり」が大事なのである。どこかの総理大臣がよく使う言葉である。教則本を独学でやると禁止事項ばかり目に入る。そのため形から入ることになってしまうが彼は音から入る。音が出る弾き方をすればいいのであって、形はどうでもいいというのである。
このところ持病の頚椎症のせいかバイオリンが弾けない。昨年頚椎症の手術をする前に久しぶりにバイオリンを弾いてみた。あの先生の言うとおり弓と腕の重さだけでタイスの瞑想曲を弾いた。
それから何日か後、近所の知り合いの人が私に声をかけてきた。「いやーバイオリンの腕を上げましたね、素晴らしいですね」、と言うのである。私の家から3軒ほど先の家の人である。窓を開けて弾けば聞こえてしまう。自分としてはそんなに変わったとは思えないが、しかしあの不愛想な人が満面こぼれんばかりの笑みを浮かべてそう言うのである。頚椎症のため、脱力と手首の返しができていたということだろうか。
バイオリンを人生一生の友としたいが、楽器を楽しむということは容易なことではない。
楽器屋さんがシニアのための音楽教室とうたって生徒募集しているが考えものである。習うには金もかかるがうまくなるとは限らない。
うまくなくても楽しめればいいというかもしれないが、うまくないのに音楽が楽しめるはずはない。スポーツ選手は「楽しんでプレーしました」、と言うが、プロの演奏家は音楽を楽しむなどという不遜な言葉は口にしないものである。
その辺を音楽教室は説明しない。入会すればすぐにロスマリンが弾けるようになりますというが、ロスばっかりでいつまでも美しいロスマリンが姿を現すことはない。
文句を言ったとしても、それはあなたが下手だからですよ、と何のために音楽教室に入ったのか分からないことになるのがオチである。
人生何を楽しむにも才能なり向き不向きということがつねにある。しかしそれを知ることが結構難しい。(了)
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