残念ながら私の幼い日の思い出に、山に映える夕陽、小川のせせらぎ、鳥も花も歌うという緑豊かな故郷の景色はない。物心ついたときの記憶は、東京の下町の赤茶けた町並みと原っぱであった。
原っぱは野原でも草原でもない。もちろん公園でもない。かつて東京の下町の、どこにでもあった空き地のことである。
「原っぱ」と題した小説を書いた作家がいるが、その人が原っぱの名付け親ということではない。誰が見ても原っぱであり、原っぱとしか言いようかないから原っぱになったということである。「下っぱ」の「ぱ」と同じことかもしれない。誰の許可もいらない子供たちの遊び場であった。不思議なことにどこの原っぱにも大きなコンクリート管が置いてあった。
原っぱへのノスタルジーか、公園を原っぱにしようと思いついた人がいたようだが、原っぱは作るものではない。仮に作れても原っぱにはならないはずである。あの時代の子供たちが遊んでいなければ原っぱとは言えない。
幼い日に美しい山河の思い出はないが、原っぱにも友達の顔が真っ赤になるような夕陽が映える。「ご飯だよ―」と食べる仕草で呼びかける母の姿が泣けてくるほど懐かしい。
きのう納戸にしまい忘れていた古いアルバムを取り出した。縦15センチ、横20センチの小さなアルバムである。
厚めの緑色の表紙には、巨人軍の帽子をかぶったピッチャーの絵と、紅梅ミルクキャラメルという字が白インクで印刷されている。
原っぱと言えば子供たちの草野球である。戦後庶民の娯楽は野球であったらしい。川上の赤バット、大下の青バットとして人気を博したという話を聞くが、そのころの私は幼すぎて記憶にない。
子供たちは原っぱで草野球をして遊んだ。貧しい時代であったから本物の道具はない。バットは棒切れ、グローブは軍手などで作ったものか素手であった。
紅梅キャラメルは、昭和20年代の半ばから30年代の初め頃まで、駄菓子屋で売られていたものである。10個入って10円。子供のお小遣いとしては1日分である。フルヤキャラメルと共によく買って食べた。
紅梅キャラメルは野球と深いつながりがあった。景品に、巨人軍選手のプロマイドやバット・グローブまで用意されていた。景品付き付きお菓子としては初めてのものであったらしい。子供たちの原っぱにおける野球人気というものに、このプロマイドなどが大きく影響したのは当然である。
子供たちに大人気となったが、しかし子供たちの万引きを誘引するようなことになり、会社そのものは6年で倒産したらしい。
このアルバムは紅梅キャラメルの懸賞品であった。私は野球選手のプロマイドとか懸賞品などというものにあまり興味がなかったが、兄は結構好きだった。選手のプロマイドなどかなり集めていた。このアルバムも、兄が懸賞に応募した景品の何等かに当籤したものである。
このアルバムには兄と私の小学校の入学式から始まって、各年の遠足の集合写真が張ってある。サイズがちょうどいいのである。
老眼の目には集合写真の顔を見分けるのは難しいが、拡大鏡をかざしながら久しぶりに懐かしい写真に見入った。
遠い昔のことであるが写真と共にわずかでも記憶がよみがえる。
兄は入学式から逃げてしまったらしい。集合写真に納まっているが、連れ戻すのに大変だったという話を母から聴いたことがある。
兄の1年生の遠足の集合写真には母と並んで就学前の幼い私が写っていた。私の頬は膨らんでいる。飴玉をしゃぶっていた記憶がある。
母が遠足についてきたのは1年生のときだけだった気がする。着物の仕立て仕事が忙しく、時間が取れなかったようだ。小さな写真でも若い頃の母を思い出す。いつも少し微笑んで体を斜めにして写っていた。
私の写真には妻も妻の母も写っている。同級生であるからそういうことになる。愛嬌のある子ではなかったが、愛想の悪い子ではなかった。今は愛嬌も愛想もある。あの入学式から70年。何を想えばいいのか。
4年生のときの遠足は村山貯水池であった。今の我が家から車で10分くらいである。私の歩行練習の場でもある。この遠足を期に私は転校したからとりわけ懐かしい。
先日、いつもの歩行練習の公園が自衛隊の観閲式とかで通行止めになり、村山貯水池に目的地を変えた。湖面の先に美しい富士の姿があった。
いつ来ても子供たちが幼かった日のこと、そしてこの遠足を思い出す。まだバギーに乗っていた息子と赤いジャンパースカートの娘と妻の4人でこの堤防を歩いた。つつじが満開であった。
遠足の集合写真はどこで撮ったものなのだろうか、と行くたびに考えていたが、きのうあらためて写真を見てその場所が分かった。
紅梅キャラメルの味は忘れたが、1個1円のキャラメルは大きな思い出を遺してくれた。また見ることもあるだろうと、「私が死んだら見る書類」、という書類ケースに大事にしまっておくことにした。(了)
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