第9交響曲と書くと9番目の交響曲ということになるが、第九交響曲と書くとベートーヴェンの最後の交響曲合唱付きとなる。
12月は第九の季節とされている。日本のあらゆるオーケストラが第九を演奏する。
どうしてそういうことになったのかなどと詮索しても音楽的な理由があるはずはなく、興行収益のためである。
毎年演奏されるようになったから、第九を聞かないと歳を越せない、などと言う人も現れる。
しかし、とにかく日本人が今から200年も前にドイツ人が作った音楽を愛し、聴き継ぎ、歌い継いできたということは事実である。
それにあやかって我がブログも第九をもって今年の締めくくりとすることにした。
とは言ったものの、第九について何か書こうと思ったが、あまり思いつくことがない。第九の素晴らしさをここに書いたところでどうということもない。
実は私は、この第九の日本における演奏ブームというようなものをあまりいいものとは思っていない。年末に、我も我もと追い立てられるように演奏したり、聞いたりする音楽ではない。
高校の時の社会科の授業で、先生が第九に触れたことがある。この先生はそのころ60才くらいで、授業の半分を音楽や芸術の話に費やすのである。自分でもピアノを弾くくらいであったから、かなり音楽に詳しい人であった。
ベートーヴェンは交響曲の作曲家として、最後に楽器だけの交響曲を作曲してもらいたかった、というのである。
あんな大勢の合唱を伴うような曲は単なるアンプリファイヤーで、なん人もが間違って歌ったとしても分からないような曲は良くない、と言うのである。
私は音楽をそのようにとらえることがなかったから、なるほどと感心した記憶がある。
もう一つ気になることがある。むかしある民宿に泊まった時、そこの経営者は楽器を弾くらしいのだが、素人は音楽をやるものではない、と言う。
素人の演奏は音楽を冒瀆するものである、と確信をもった口調で言い切るのである。私はこの言葉にも納得しているのである。
第九の合唱はほとんどがアマチュアの合唱団である。日本にはプロの合唱団は数えるほどしかない。
老いも若きもフロイデ シェーネル グゥッテルフンケンなどと楽譜にルビを書き込んで、カタカナのドイツ語で歌っている。意味は分かっているものと思うが、しかし言葉というものは発音である。
合唱団によってはドイツ語の発音のためにトレーナーを呼んで口移しのように発音を教えるらしい。しかしなぜ日本語で歌わないのかという疑問がある。以前労音が企画する第九では日本語で歌っていた。しかしどうも定着しなかった。
お経のように歌うカタカナドイツ語と、歌う人も聴く人も明確に意味が分かる日本語と、どちらにすべきかと言えば当然日本語になるはずであるが、それでは日本の第九にならないらしい。
1万人の第九などというものはすぐにでもやめて欲しい。あれはまさに興行であって演奏会ではない。感動の押し売りである。大音響というのは感動ということになりやすい。
第九はシラーの詞も含めて、フランス革命、ナポレオン、ウイーン体制という中から生まれたものである。
シラーの詞の意味はどこにあるのか。ベートーヴェンが自ら否定した第九の3つの楽章は何を表していたものなのか。正直何も分からないことだらけである。
言葉のある音楽は、声をインスツルメントとして聴いてきた。それでも感動するものである。言葉が分ったらどれほど感動は膨らむものなのであろうか。言葉が分らないから分りようもない。
何も良く分からない中で第九を聴いて感動してきた。やはり第九は素晴らしい。(了)
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