笑い転げて育てる

つぶやき

 きのう久しぶりに彩の森公園に行った。このところ女房と喧嘩をしていて、外に行くのも面倒と、家の中で歩く練習をしていた。

 駐車場には満車の看板が立てかけられている。普通の日なのにどうしてこんなに混んでいるのかと思ったら、春休みであることに気がついた。

 昨年の夏のころからこの公園をずっと見てきた。どんな春が始まったのだろうかという思いがある。駐車場が混んでいるなら空くまで待とうと思った。

 素晴らしい春だった。押しつけがましくない春があった。モネの風景画のような色彩である。

 やはりこの公園のレイアウトは素晴らしい。見届けられるだけの数の桜、数えられるだけのチューリップで充分である。
 冬木立と春が併せある。濁った池の流れも雪解けに見える。

 日本庭園は自然を模したものというが、模すことは自然ということではない。
 言ってみれば日本庭園は人工美の極みではないか。木々を刈り込んで何が自然美だろうか。龍安寺の石庭。あれは刈り上げたヘアースタイルである。

 日本庭園は仏の教えだの哲学だの持ち込みすぎて、人に安らぎではなく緊張を強いている。自然は不揃いで、形がないから安らぎがある。

 公園は、自然の中で人間が好きな風景を選んで作ったものである。だからいつ行っても美しい風景がある。

 人の話はよく聞くものだと言われる。今の総理大臣は、人の話を聞くことができる、ということを政治能力の一つにしている。

 人の話はよく聞く、ということは、ともかく聞くだけではなく、聞いて的確に反応することが必要である、という意味である。

 その反応も、話を否定するのではなく、反論するのでもなく、あなたの言うことは良く分かる、という肯定的な相づちが必要である。

 しかし最近、それではだめなのだ、という衝撃的な話を聞くことになった。

 子供の話を聞くときは、真剣に聞くとか、よく分かったと言うとか、相づちを打つとか、よくそこまで判ったねと褒めるとか、そういうことも大切なことであるが、子供の話を聞いたら何よりも笑い転げることが必要である、というのである。

 ニコニコとかニヤニヤではなく、テーブルでもどんどん叩きながら、できたら足をバタバタさせて笑い転げなければ、子供の話を聞いたことにならない、というのである。
 笑って育てることは必要だと思うが、笑い転げることまで必要とは思わなかった。

 子育てはとっくの昔に終わっている。私は子供の話をきいて相づちくらいは打ったろうが、褒めることなどは滅多にしたことはないから、笑い転げて子供の話を聞いたようなことはない。

 つまり子育ては、このブログにも書いたことのある明石家さんま的であることがいいいということである。

 歯をむき出しにしてさんまが笑い転げれば、ギャグを言った方は受けたと思う。
 そのギャクが本当に面白いものであるかはどうでもいいことである。

 これは大切なことだ。素晴らしいコミュニケーションとなる。さんまはそれを知っている。おろそかにできない芸人である。

 話をするのが子供であれば、親が笑い転げればうれしいだろうし、それこそ親が話を真剣に聞いてくれたと満足するであろう。もっと親と話をしたいという気にもなるだろう。

 近所に住む孫の父親は、と書くと他人っぽくなるが婿さんである。
 彼は笑い転げながら幼い子の話を聞いて子育てをしてきたという。その父の父親も、孫や息子の話を聞いて笑い転げるらしい。
 笑い転げることもなく子供に接したのはうちのお父さんだけだ、と娘は女房に言ったという。

 そういえば孫は、素直で性格のいい素晴らしい青年に成長した。私は確かに失敗したと思った。取り返しのつかないことをしてしまった。いや、してしまったではなく、しなかった。

 今からでも取り返しができるなら、笑い転げる年寄りになろうと思ったが、頚椎症のため転げ回ることは医者からきつく禁じられている。

 子供を育てるには、笑い転げることは大切なことだと思うが、人生には金が転がり込むことも大切なものだ。
 自分の車で通学したり、生活費を得たり、笑い転げなかった父親や義父のお陰で、みんな豊かな学生時代を過ごしてきたではないか。   (了)

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