議論というものは、どちらの主張が妥当か、ということのためにある。
議論によって自分の主張が正しいものと認められた。議論によって自分の主張が誤りであることに気がついた。
当事者双方が議論を経て納得して事の解決を図るものである。
当事者が議論の結論を出せない場合、裁定者がいる場合もあれば、いない場合もある。
裁定者がいる場合は、「裁定者の判断に必ず従わなければならない」という場合と「裁定者の判断を尊重する」という場合がある。
裁定者がいない場合はケンカ別れとなる。
訴訟は裁判官という裁定者がいる場合のことであるが、裁判手続きには裁定者がいない場合もある。和解や調停には裁定者はいない。
訴訟においては、民事でも刑事でも、当事者が議論した内容について裁判官がどのように受け止めたか、ということが議論の結果となる。
当事者が嘘をついていようが、沈黙していようが、記憶にないと言おうが、それが裁判官にどんな印象を与えるかということである。
「記憶にない」という言い方は国会では通じるが、裁判においては通じない。
「命より大事だという選挙に使う金を、『記憶にない』と言う被告人の陳述は到底信用することができない」と判決文に書かれることになる。
沈黙していれば、「余計なことを言わなければ有利になると思ったら大間違いだ」となり、これもまた不利な判決の原因となる。
判決文の書き方は違うと思うが、主旨はそういうことである。
国会の議論にも裁定者がいる。多数決という裁定である。
連日おかしな議論がされているが、おかしい議論と思うのは結果が決まっているからである。
嘘をつこうが、沈黙しようが、記憶にないと言おうが、それによって罰せられることはないし不利になることもない。自民党と公明党で議席の過半数を占めているからである。
議員は国民の代表である。したがって過半数を占めた判断は尊重するのが民主主義の在り方であるから間違ってはいない。いつも自民党の議員は「我々は国民の信託を受けている」と言う。
いかし過半数の信任とは投票者の過半数ではなく、有権者の過半数でなければおかしい。
2021年の衆院選の投票率は56%と言われる。この投票率において過半数を占めたと言ったところで国民の過半数の支持を得たことにはならない。
投票に行かない国民に責任があることになる。民主政治は素晴らしい制度であるが、民が主であることが難しい。連日の政倫審を見てそう思う。
小学校の社会科見学で国会議事堂に行ったことがある。私の国会に関する知識はこの時のままである。(了)
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