「高齢とは死ぬまでの時間つぶし」という言い方があるらしい。私のオリジナルと思っていたが、みんな思うことは一緒であった。
「高齢とは死ぬまでの意味づくり」と言う言葉が高齢者向け雑誌にあった。そういう見方もあるのかと思ったが、「そうかなあ?」と思う。高齢になってまで「意味づくり」などしたくない。
「高齢とは死ぬまでの時間つぶし」でいいと思うのだが、こういう言葉はクールで現実を的確に言い当ててはいるが、やはりどこか寂しく救いがない。
高齢は確かに寂しく虚しいものでそれ以上のものではないが、「高齢とは死ぬまでの意味づくり」とは思いたくない。
じゃあ高齢はどうしたらいいのか。
「高齢とは死ぬまでの時間を味わうもの」というのが、力みもなく、変な独善もなくいいと思う。「高齢とは死ぬまでの時間つぶし」矛盾することもない。
今日久しぶりに石神井公園に出かけた。出かけるのは毎日のことであるから、近所の人からは、「あの家はいつ行ってもいない」ということになっている。
好きで出かけているのではない。リハビリのためである。だが今日は好きで出かけた。
石神井公園は我が家から電車で行けば20分くらい。車では1時間と何分かかかる。以前は電車で出かけたが、ランチでビールを飲むためである。今は歩くのがつらいからビールは諦めて車となる。
石神井公園に行き始めて何年になるのか全く覚えていないが、毎年行くようになったのはメタセコイヤの黄葉である。この公園でこの木を知った。
石神井池と三宝寺池が道路を挟んである。カワセミの生息地でもある。
石神井池のボート乗り場から道路を隔ててそば屋がある。以前何度か入った店であるが、温かい天ぷらそばが絶品で、ここでは「もり」ではなく温かいそばにしている。
ここの天ぷらそばの天ぷらは別もりである。かけそばに天ぷらが別皿でついてくる。これを家内がとてもうれしがる。温かいつゆに浸かった天ぷらにはカリカリ感がない。だが私はカリカリ感よりべっとり感が好きである。
家内が一箸口にして、いつも通うそば屋の味と違うと言う。ころもはしっかり揚がっているのに海老はほとんど生に近い。
しばらく来ないうちに田舎の料理に慣れてしまったようだ。いつも通う店がおいしくないということではなく、料理とは味だけではなく洗練ということがある。
見た目に美しく、口に入れて美味なるそばを久しぶりに堪能した。
なんとなく映画のセリフを思い出す。「人の情けを生かする殺すも己の器量次第」
もっと味わえるものを私は人生の中で捨ててきたのかもしれない。


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