相続登記が義務化されることになった。登記をしないと過料に処せられる。
もともと登記は義務ではないのか、という疑問があるかもしれないが、表題の登記(不動産の所在とか面積などを記載した部分)は義務であるが、権利の登記(所有権とか抵当権など)はするもしないも国民の自由、というのが登記制度の基本である。
建物を新築した場合など表題登記を義務としなければ国はその建物を把握できない。
なぜ把握する必要があるかと言えば徴税のためである。ただし現在は航空写真の発達により登記するまでもなく行政は把握している。そういうことでは表題登記を義務とするのも実益はないことになる。
登記を義務とするか自由とするかは理論の産物ではなく、国の民事行政に対するやる気の問題である。自由とすることは行政にとってはさほど負担がかからず責任が生じにくいものである。自由とする所以である。
登記は社会に対する公示制度であるが、それは取引の安全のためである。
不動産の表題登記によって公示制度としての意味は果たせることになるが、それとは別に権利の登記を認めることにした。ただし権利の登記は、国に権利の保護を求めるなら願い出ればいいし、保護がいらないというなら登記しなければいい、というのが登記制度の発足以来のスタンスである。
登記は「お上」に願い出るものである。登記は当事者の申請により開始する、とされるが、その申請の意味は願書の意味である。登記は国民の申請に対する行政の回答ではない。登記申請に対して登記所が発行する文書には一切宛名がないのはこのことを意味している。
登記名義人が死亡して相続が開始すれば、その権利は死亡と同時に相続人に移転する。なんの意思表示も必要ない。自動的に、当然に相続人のものとなる。登記も不要である。登記しなければ第三者に対抗できない、ということもない。なぜなら対抗する第三者なるものが存在しないからである。
登記をすれば登録免許税などの費用がかかる。相続したからといって登記しなければならないということはない。そうであるなら、そのままにしておくというのが人情である。そのことから現在の所有者か誰であるのか分からなくなってしまった。
昔は親が住んでいた建物に子供が住んだものだが今は核社会。立地のいい土地建物であれば金に換えるということもあるが、地方では売れない。
相続登記をしないことによって不利益を受けたのが地方公共団体である。いわゆる空き家問題がすべて行政の問題になってきてしまった。
火災の危険、不審者の出入り、建物の老朽による危険、町の景観。いろんな問題が生じてきた。所有者不明の不動産が各地に多数存在するようになって、国や地方公共団体に大きな負担がかかるようになったのである。
もはや相続登記を罰則をもって義務化する以外解決の方法がない。ただ可笑しいと思うのは、今まで、願い出るならやってやる、とふんぞり返っていた「お上」が、足元に火がついて慌てふためいて制度を改正したことである。
相続登記の義務化は法律に何の節度も理論もないことを示すものである。
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