痛快と痛恨

つぶやき

 最近爽快なことはあっても痛快ということがない。爽快とっても公園や河川敷を散歩するぐらいなことで、特別爽快な生活をしているというわけではない。
 同じ「気分がいい」ということを表す言葉でも、爽快と痛快は違う。いつも言葉の選択において感じることであるが、漢字というものは大したものだと思う。痛という字にも、人の感情の微妙な違いを言い表した言葉がいくつもある。

 気分がいいの「爽快」であるが、爽快にはスカッとしたものがない。スカッと胸がすくのが痛快ということになる。広辞苑には、「はなはだ刺激的で愉快なこと。小気味いいこと」と書いてある。
 爽快は自分が感じことであるが、痛快は他人の行動などから感じることが多い。嫌いな人間が何か失敗すれば痛快である。何を痛快と感じるかは人間性を表すことになる

 昨夕、久しぶりに痛快な思いをした。痛快になることをしたのではなく、「隠し砦の三悪人」という映画のビデオを観ただけのことである。好きなセリフがあり、ときどきこのビデオを観る。
 1958年の制作ということであるから私が11歳のときの映画である。その当時、この映画を錦糸町の駅前にある江東楽天地という映画街で観た記憶がある。
 戦いに負けた藩の侍大将が、世継ぎの姫と軍用金を持って2人の百姓と村娘と共に敵中突破する姿を描いた冒険時代劇である。椿三十郎や用心棒の前に作られた黒澤明監督作品ということになる。
 主演は侍大将に三船敏郎、姫は上原美佐。この女優さんはこの映画に出演してから引退してしまったのだろうか。まったくその後の姿を見たことがい。

 この映画の見どころは裏切りである。結局姫たちは敵に捕らえられてしまうのであるが、敵方の侍大将の裏切りによって同盟方に脱出することに成功する。敵将がどういう理由で自藩を裏切ることになるのか、ということがこの映画の成否を決めるポイントでもある。

 裏切りのいきさつには、さすが黒澤というべきかうまい言葉やエピソードが用意されている。大藩の侍大将が自分の主を裏切るわけである。よほどのストーリーがなければ観客は納得しない。そのストーリーを書きたいところであるが、それでは講釈師になってしまうのでやめておく。
 
 処刑に引き立てられる姫たちを逃がす裏切り行為が、あまり格好良く描かれていない。裏切りをする敵の侍大将は藤田進が演じている。もともと器用な役者ではない。
 朴訥として味方を裏切るのである。裏切るべきだと思わせるようにそれまでのストーリーはできている。そうであるからこのシーンはなによりも格好いいものであり、格好よくできるはずである。ところが藤田進の演技は格好悪いのである。

 このシーンに対する黒澤監督の演技指示は、「格好よくするなということであったことを後年知った。格好悪いことの格好良さを画面に出したかったのであろう。
 敵の砦から逃げ、峠を駆け下る姫たちを乗せた3頭の馬のシーンは実に痛快である。 この時代、サラブレッドのような馬は存在せず、短足の農耕馬しかいないはずだが、そんなことはどうでもいいようだ。黒澤監督は馬には格好良さを求めたようだ。音楽がとてもいい。音楽佐藤勝とあった。

 裏切りいいことであるはずはない。は、人に裏切られたと思うことがあるものだが人を裏切っていることもあはずである。そう考えるのが確率的に正しい。
痛憤にかられる裏切りがあれば、
痛快な思いの裏切りもあり、痛恨の極みの裏切りもあるが、どんな裏切りでもそれにからめて痛飲はできる。ただし痛風だけは避けた方がいいらしい。()

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