私は父親を知らない。父は私が1歳半くらいの時に病死している。どんな父親であったかは母から聞く話だけである。
父親の存在というものを全く知らないから懐かしいとか、父親がいれば、という気持ちにもなったことがない。戸籍からすると私は父が43歳の時の子である。
子供の頃母から聞かされた父親の話はあまりいいものではない。
父母は昭和15年に結婚している。結婚当時東京のデパートに勤めていたという。
日華事変で兵隊として中国に行っていたらしいが、負傷して日本に帰り、その後結婚したようだ。傷痍軍人の恰好をして父の姉と写っている写真を見たことがある。
そんな男と結婚なんてすることない、と母は自分の母から反対されたという。
太平洋戦争となり米軍の飛行機が東京の上空に飛来するのを知って、父は家族を連れて故郷に疎開した。漁師町である。私はこの地で生まれた。
母の話によれば、父はその故郷で博打を覚えたらしい。母が結婚したときに持っていった着物からタンスから、なにからなにまで全部博打のかたにもっていかれた、と言うのがいつもの母の言葉であった。
酒好きで気前が良かったという話もあるが、母に暴力をふるうような人間でもあったらしい。
いつ頃からどんな病気をして死んだのかははっきりとは分からないが、戦争で受けた傷か原因となったらしい。
キャサリン台風が関東を襲った時、父を抱えて避難するのが大変だったという母の話を聞いたことがある。キャサリン台風は昭和22年であるから亡くなるまで1年以上病床にあったことになる。
父は昭和23年の11月に、7歳の娘を筆頭に3人の幼い子供を残して、太平洋の荒波が押し寄せる掘立小屋の家で、貧乏のまま死んでいった。45歳だった。
母は、父が死んでからもしばらく父の郷里で生活していたらしい。魚や米の行商をして生活の糧にしていたようだが、重たい私を背におぶっての行商であり、売る品物は両手に持てる量に限られた。
千葉から朝一番の汽車に乗り、総武線沿線の東京の町を、少しでも多く売るために、ひたすら歩いていたようだ。
汽車の中では警察の検問があった。母の行商もいわゆる闇商売と言うことになるのだろう。検問に引っかかってしまえば、その日仕入れだ魚などはすべて取り上げられてしまう。
私のおしめは最初に着いたお客さんの家で洗濯し、そこに干させてもらって帰りに取りに行く。そんな行商をしていたらしい。
母の姉の嫁ぎ先が総武線沿線にあった。母はよく寄ったらしい。
ある日その姉の家に母の母が来ていた。
幼児を背負い、乞食のような格好をして行商をする娘の姿を見てすべてをさとったらしく、「お前がこんな苦労をしているとは知らなかった」と言って、世間知らずのお姫様育ちであった祖母が母の手をとって泣いた。そして実家に引き取るということになった。
母は父が死んで以後の窮状を親に訴えることはしなかったようだ。母は再婚である。以前親の勧めた結婚が離婚となった過去があった。
母の言葉によれば夫の女遊びが原因だったという。親の勧めた結婚が、自分に落ち度はないとしても壊れてしまったことに、母はふる里を頼ってはいけない、と心に決めたようだ。
結局私たち家族は母の実家ではなく叔母の家に居候することになった。
母が実家に帰ることを望まないことを知った祖母が、叔母の夫に懇願したらしい。
私が物心がついた最初の記憶は、赤茶けた東京の下町である。空襲で焼けた跡がそこかしこに残っていた。
小学校で、この子は父親がいない子だ、という言葉をかけられたことはない。そのような思いにさせられたという記憶もない。
クラスに母子家庭は2人くらいしかいなかった。戦争が終わって男性が生きて帰ってきたから生まれた世代である。すこし前の世代には母子家庭が多かった。
しかし父がいないということを実感することがあった。母の日である。父のいる子は赤いカーネーション、いない子は白いカーネーションの造花を胸につけて母に感謝をする。
「君はお父さんがいないから白いカーネーションだね」と担任の先生が言うとクラスの顔は一斉に私の方を向いた。少し寂しさを感じる言葉であった。
でも私はクラスの中で一番大きな声で返事をする、活発で明るく元気な子供であった。
私は父親を知らない。父親を知っていればなにか役に立つようなことがあるのか、それも分からない。
私の子供たちは父親を知っている。何か役に立つことがあったのだろうか。
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