私が生きづらいということではない。生きづらいという話を最近よく耳にし、目にするのである。
耳にするのはテレビからであり、目にするのは新聞やネットからである。
人との会話で話を耳にするということがめっきりなくなった。周りは終活の人ばかりである。いまさら生きづらいなどと言っている歳でもない。
生きづらいと言って自殺した作家がいた。
「どう生きていったらいいのか分からないのです」、と自らの小説に書いていた。
人生を書いている作家に自殺者が多い。小説では解決できても自分の人生は解決できないのかもしれない。
お金持ちは別として、世の中は生きづらいものであった。とにかく生きていくことは辛く苦しいことであった。生きづらい世の中を歯を食いしばって、なんとか生きていくのが人生であった。生きづらいという言葉はあったかもしれないが、それを口にすることなく人々は生きてきたのである。
しかしどうも最近の生きづらいということは、戦後の貧しい生活のことをいうのではなく、若い人たちの社会や他人との関わり方に関することであるらしい。
私の知識で手に負えるものではない。2つのネット記事が目に留まった。
<生きづらさ>とは、当人をとりまく理不尽な環境に問題があるにも関わらず、それらを全て個人の責任とされ、罪悪感を植え付けられ、その結果、外的規範の強迫的な内面化と、過剰適応によって自己否定感や周囲と一体となれない疎外感などを感じさせられてしまうことをいいます。
HSPとは、Highly Sensitive Person略で、人一倍繊細な気質をもって生まれた人という意味です。こうした気質を持つ人は職場や家庭など生活の中で気疲れしやすく、生きづらいと感じているタイプの方が多いのです。
同じ記事からの抜粋ではなく、それぞれ別の記事である。
生きづらいと感じるのは「弱者の甘えだ」という考えがいままで支配的な社会であったと思うが、いずれの記事も、人の気質などにより生きづらさを感じながら生きている人たちの存在を認めて、社会としてそういう人達に対する理解を深めるべきだという主張の前提として書かれている。
生きづらさとはモラハラ、パワハラなどにつながっていることである。モラハラ、パワハラは昔風に言えば叱咤激励である。しかし叱咤激励の名のもとに、悪意の叱咤激励が許されてきた。出世しか関心のない上司が部下をまともに叱咤激励するはずがない。
私は幸いなことに生きづらさを感じたことはない。しかし会社勤めなどにおいて理不尽さというものは何度も感じたことがある。
私は人に生きづらさを感じさせてしまったかもしれない。
生きづらさを感じるのは弱者の甘えであるということも言えるかもしれないが、人に生きづらさを感じさせるのは自分勝手ということしかない。
生きづらさというものについてもう少し考えなければならない。人に対する見方が変わるかもしれないからだ。
自殺した作家はHSPだったのかもしれない。HSPは病気ではない。
感受性が強いということは生きづらさになる。そうかもしれないなと、頬杖をついて考え込んでいる作家の写真を見つめた。(了)
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