先日夕食時に、「認知症になりやすいタイプ」という新聞記事を妻が読み上げる。
「友達がいない、人の話を聞かない、怒りやすい、……」とみんな私に当てはまる。妻もそれを知って読み上げたらしい。
「やめてくれ」、と私は妻に怒るように言って、妻は読み上げるのをやめた。
血圧でも血糖値でも予備軍と言われる症状がある。私はそのいずれも予備軍である。それに認知症まで加わったらたまらない。なんとか認知症だけは避けたい。
しかし人生最後に、癌だの認知症だのがあるというのもひどい話である。
変な言い方だが、癌は命に関わる病であるから仕方ないとしても、認知症は命に直接かかわるものではなく、本人のことも含めて世の中のことが判らなくなる病である。
生きてきたことが無意味になるような病である。
昔は平均寿命が短かったから認知症はあまりなかった、という話があるが、どうもそうではないらしい。
例えば江戸時代の平均寿命は40歳くらいと言われているが、これは乳幼児の死亡率がダントツに高かったことが原因だと言われている。
徳川将軍の跡取りとして生まれても、成人するのは10人に1人か2人と言われている。現代ではほとんど死ぬことのないインフルエンザや疱瘡、はしかでも多数の人が亡くなったらしい。
平均寿命というのはあくまで平均であるから長命な人は長命である。家康は75歳、葛飾北斎は88歳で死んでいる。
今は認知症という立派な病名が付いたが、昔はボケとか痴呆と言ったものである。
母の郷里でよく聞かされた話がある。
昔は狐憑きとか、キツネに騙されたという話が多い。狐憑きというのは女性に多く見られる精神の異常で、現代では脳の病として医学的に位置づけられている。
キツネに騙されたというのはどうも認知症に絡んだことではないかと思う。その話の定番は「肥溜め風呂」である。
むかし畑の中には、肥溜めという人糞を保管する桶が埋め込まれてあった。むかしの肥料は人糞だったのである。
各戸の便所はもちろん水洗ではなく甕に溜めるもので、甕がいっぱいになれば汲み取って畑に運んでいた。
肥溜め風呂というのは、家からいなくなった年寄りが、この肥溜めで発見されることが多かったことかららしい。
夜道を歩いていると、若くて美しい女性に呼び止められ親切にされた。風呂まで世話になった、というのがその年寄りに共通した話になっている。
村の人はキツネに騙された、という。この話は誰からも聞くことであるが、創作ではなく事実であるがごとく語り継がれている。
徘徊している老人が肥溜めに落ちた、ということだと思うが、どうしてこういう話になったのだろうか。伝承話にも作者がいたのかも知れない。
認知症の人の行方不明が年間1万8000人もいるという。どうして見つからないのだろうといつも思う。昔から老人の行方不明というものはあったのであろう。
しかし現代の世の中でこのような事態が毎年起きているとは、本当に認知症というのは恐ろしい病である。(了)
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