物事の本質

つぶやき

 法律上の無効とはどういうことか、とゼミで教授が学生に質問した。大半の学生が、「やってはいけないということです」、と答えた。民法の大御所と言われた東大教授が書かれた民法入門書の冒頭の部分である。

 ネットではどんな説明がされているのかと調べてみたら、法律上の効果が生じないこと、と書いてあった。法律上の無効、つまり法律上の効果が無いということはどういうことかを訊いているのに、これでは答えにならない。言い換えただけである。

 答えは、国家権力が個人の権利実現のために力を貸さない、ということになる。つまり裁判所に訴えても裁判所は取り上げてくれない、ということが無効の意味である。

 よく言われる例として、賭け麻雀で負けた者が10万円の支払いを約束したが払わない。そこで勝った者が裁判所に支払いを求めて訴えた。このような場合に裁判所は訴えを取り上げることなく却下するということである。

 賭け麻雀から生じた支払いの約束は、公序良俗に反する行為であるから、そんなことに国家が力を貸すことはない、ということである。

 分かってみればなるほどということだが、優秀な学生たちでも、物事の仕組みと言うものを理解しないうちは、こういう類の質問は答えにくい。

 民法という法律は、社会生活における正義を律するものではなく、個人間の財産的損得に関して、国家がどのように、どの程度関わるか、ということを定めたものである。
 法制度あり方というものを知らないと、無効の答えが出てこないことになる。

 物事には本質というものがある。「あの人は本質を掴むのが速い」と言うが、早い遅いの違いだけであって、早ければ優秀ということではない。

 優秀な人は、物事の本質をつかむこともなくすべてを理解できる。優秀でない人は物事の本質をつかむことはできるがその先に進めない。

 本質なるものは、存在そのもののことであるから難しいことではなく、誰でも掴むことができるものである。優秀な人は本質をつかむ必要がない。

 外国人は本質を追及するが日本人は追及しない。外国人は本音を語るが、日本人は本音を明らかにしない。大まかな言い方だが、このような事実は存在している。

 だから日本人はダメなのだ、というのが以前の結論だった気がするが、最近ではそれはそれでいいではないか、という論調も風潮もある。

 島国日本は、島国日本としての生き方しかない。島国日本を脱却しなければ、という時代があったが、今もそれは言われ続けているのだろうが、やはり島国日本である。

 先日ある医療関係の人と話をしていて感じたことである。結局人との関係は印象しかないのではないか。

 日本人は議論を好まないと言うが、日本において議論は必要のないものなのである。
 議論に勝ったところで大した意味も無く、議論に敗ければ恨みを持つ。議論しない方がいいのである。

 5・7・5の字数で意思が伝わる社会である。日本の言葉は議論のためではなく印象や雰囲気のためにある。
 今になって、あの人と議論してはいけないな、と思う人が何人もいたことに気がついた。   (了)

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