ウォーキングのために、去年の夏頃から行くようになった公園は、まさに新緑の季節である。
夏から秋、冬と移る季節を見てきたせいか、この公園の美しさを格別に感じる。
景色などには全くと言っていいほど関心がないのだが、何回も来るうち愛着が湧いたということだろうか。
昨日は少々風があったが、それがとても気持ちがいい。
「爽やかな5月に」という詩の題名を思い出した。
詩の内容から思い出したのではない。詩は全く覚えていない。言うまでもなく若くして亡くなった立原道造の詩である。
立原道造を知ったのは中学2年生の時である。
詩集など買ったことなどないのだが、たまたま立原道造の詩集を手にして目次をパラパラと見たとき、各詩の題の美しさに気がとられたのである。
詩を読んでみたが解らなかった。パズルではないのだから解らなかった、というのはおかしな言い方になるが、まさに解らない、であった。
「爽やかな5月に」「みまかれる美しき人に」「やがて秋」などの題だけしか覚えていいないのだが、ひとつだけ覚えている詩がある。
「かなしみではなかった日のながれる雲の下に 僕はあなたの口にする言葉を覚えた…」 ゆうすげびとである。
この詩に作曲をしたので覚えているのである。自分しか言う人がいないから言うが、名曲であると思っている。
以前テレビで聴いたのか、本で読んだのか、はっきり覚えていないが、爽やかという言葉は秋の季語だそうである。5月はすがすがしい」と言うらしい。
「爽やかな5月」「すがすがしい5月」どっちがいいのだろうか。
春も秋もそのひとつ前の季節は冬、夏という過酷な季節である。それに耐えて迎える季節が春と秋ということになる。
春には喜びがあり、秋には……?。なんと言ったらいいのだろうか。やれやれ、とか、ホッと とかいうことだが。適当な言葉が見つからない。要はそんな感じである。
爽やかもすがすがしいも、季語では問題であっても、いずれを使っても大した違いはないと思う。
しかし道造の「爽やかな5月に」は間違った使い方だと言われると困る。私の乏しい詩の読書歴では5月は「爽やかな5月に」であり、旗は「旗ははたはたはためくばかり」なのである。
若い頃、ジャズのギターを弾く人と知り合いになった。
音楽はメロディを覚えて反復することによってその良さが分るものだ、というようなことをその人に言ったとき笑われた。あれは嘲笑とも言うべきものであった。
ジャズに関する知識はほとんどないが、ジャズは即興で演奏され、譜面などもコード記号が記されているだけで音符はないということは聞いたことがある。
記憶しなければ音楽にならない、ということへの挑戦がジャズなのかもしれない。
音楽といえば古臭い「クラシック」としか言わない人間への軽蔑が、あの笑いであったのであろう。謙虚さを欠く人であった。
しかしジャズはそうだとしても、詩や音楽や映画や文学でも、暗記反復は作品を理解するうえで重要なことである。
特に詩や音楽の場合は暗記しなければ何も分からない。ベートーベンの田園交響曲は、と尋ねられたら全楽章が思い浮かばなければ知っていることにはならない。
絵画の場合はどうなのであろうか。ファーストインプレッションがすべてなのか。反復するものなのか。記憶の中にあって感動するものなのだろうか。
60数年ぶりに「爽やかな5月に」を読んだ。覚えるには長すぎる。この歳になって詩を覚えるには、俳句の字数が限界である。最後の段に惹かれる。
はじめての薔薇が ひらくやうに
泣きやめた おまへの頬に 笑ひが浮かんだとて
私の心を どこにおかう?
谷川俊太郎さんは詩はくだらないもの、意味がないものと言っている。
正しい解釈などないのに、それを求める学校の教育はおかしい、と言っている。
谷川さんを敬愛しているわけではないが、私の若い頃からなんとなく知っている人である。
あの意気盛んだった谷川さんがこんなことを言うようになった。谷川さんもいよいよ仙人の境地になってきたようだ。 (了)
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