父 と 息 子

つぶやき

 昨日は北風が強く寒いので、いつもの公園でのウォーキングはやめて、店には悪いが、家から近い大型商業施設の店舗内を歩くことにした。

 4000歩近く歩くことができた。家内がちょっと散財したから、店に悪いことをしたということもない。

 3時過ぎに戻ると我が家の前にベンツが止まっている。家内の妹夫婦が富士の忍野村からわざわざ孤独死した従弟の関係書類を届けに来てくれたのである。

 知らなかった従弟の話をいろいろ聞くことができた。私の身内のことではなく家内の親戚の事なので、今まで家内から話を聞いても話の輪郭がはっきりしなかったが、義弟から具体的な話を聞き、解消された疑問もあった。

 死んだ従弟の母親はなぜ父親と結婚しなかったのか。なぜいつまでも子供に父親の話をしなかったのか。母親は42歳になって17歳も年上の男と結婚したのか。結婚した男には7人の娘がいた。どんな生活だったのか。
 登場人物は明治の後半から昭和初期の人達。あの時代はそういう時代であった。

 話は従弟のことから家内の父親の話になった。私の義父である。
 15の時から、もっと前かも知れないが、東京の鉄工所で働き、戦争に行き、生きて帰って同じ鉄工所で定年を過ぎても働いていた。
 酒を愛し、歌を愛し、なんにでも感謝を忘れず、今思えば、いい義父であった。

 義弟が、お義父さんは自分の息子に遠慮をしていた、というようなことを言う。息子とうまくいかないということではなく、男としての生き方というか、考え方というか、そんないろんな事でお義父さんは、自分の息子を気にかけながら近寄れなかった、と言うのだ。

 息子は中学では卒業生総代で答辞を読み、学区のトップの高校に進学し、大学では哲学を専攻した。
 
 義父は昔の小学校卒である。私の母親も小学校卒であったが、昔は親の学歴を書かされたものである。
 母親が尋常高等小学校卒と書くたびに、高等学校を出ているのかと思ったものだが、小学校のことであった。

 義父が結婚するとき相手の父親から、小学校しか出ていない男に娘を嫁にやるわけにはいかないという話があったらしい。結婚相手は当時の女学校を出ていた。家内の母親である。

 親にとって息子は自慢の子であったが、と同時にまぶしい存在であったのかもしれない。
 職人としての自分と、学問を身に着けた息子。自分より上だという気持ちがあったとしてもおかしくない。

 義父と義弟はなにか通うものがあったようだ。義弟は国立の工業大学を出た人であるから優秀な技術者ということも言える。
 義父は同じ技術の世界の人間として、義弟に親しみを感じていたらしい。

 義弟の話を聞いていて、「そういうことってあるかもしれないな」と思った。
 父と子が話し合ってどうなることでもない。息子にしてもどうしようもできないことである。

 私の息子が20歳の頃私に手紙をよこした。「いろんな思いの中で自分が何をやっていいのか、何をやるべきなのか分からない。いつかきっとお父さんの気持ちに応えるように努力します」というような内容であったと思う。この手紙は今でも私の机の中にある。

 父と息子の関係。息子が親にならなければ分からないことである、と分かったような言い方があるが、息子が親になったところで、分からない親子関係が一つ増えたということである。

 息子の息子ももう少しで20歳。分からないことが分かった息子と私が話をすることもないだろう。親子とは分からないままなのである。

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