和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたというが、何を和食というのだろう。
その前になぜ「和」食なのだろうか。和風とも和式ともいう。和とは日本という意味だと思うが、どうしてそういう呼び名になったのであろうか。
昔中国は日本を倭国と呼んでいたらしいが、それに関連したことなのか。大和の国の和なのか。この歳になって気にしてもしょうがないが少々気になる。
和食と言えばこれしかない、というものはなさそうである。寿司、天ぷら、すき焼き、ラーメン、そばうどん。高級なところで会席料理一式。人によって何が和食かは異なる。
何が登録されたのだろうか。調べてみたら個々の和食のことではなく、「和食文化」のことだという。和食文化などあるのだろうかと思ったが、ユネスコに登録申請した農林水産省はあるという。
「南北に長く、四季が明確な日本には多様で豊かな自然があり、それにより他国には見ない食文化が生まれた。自然を尊ぶ日本人の気質に基づいた食に関する習わしは人類の文化と呼ぶにふさわしい」というような意味のことである。
さすがお役人の言うことだけあってうまいことを言うが、庶民にはあまり実感がない。「自然の美しさや季節の移ろいの表現」と和食を説明しているが、高級料亭でしか食べられない会席料理のことではないか。
この登録申請を担当した農水省のお役人は、よく接待される高級料亭の料理を思い浮かべながら登録申請書を書いたのではないだろうか。
高級料亭の会席料理など食べたことはないが、会席料理と懐石料理はどう違うのだろうかと長らく思っていた。
懐石とは石をふところに、ということだから何か特別な感じもするが、一服のお茶をおいしく飲むためのものが懐石料理ということらしい。
そう言われればお茶というものはそうである。お茶だけ飲むより、その前に何か口にした方がお茶をおいしく飲める。甘いものがいいか、せんべいなどの少し塩気のあるものがいいか。不思議なことにいずれもお茶に合う。
米のうまさというものを、最近あまり感じることがなくなった。炊く量が少ないのかもしれない。
15歳の時初めて母の実家で1週間ほど過ごしたことがあるが、米がこれほどうまいものとは知らなかった。漬物も信じられないほどおいしい。
母がおいしい漬物さえあれば他に何もいらない、とよく言っていたが、その意味が良く分かった。
食文化というのは、いかにきれいにご飯をおいしく食べるか、ということではないかと思う。
そもそも食べるということは美しい動作ではない。食べ散らかすという言葉もある。
息子が出張先の九州から明太子を送ってきた。無着色の上物である。若い頃こういう物のおいしさというものが分らなかった。なんでも腹いっぱいになればいい、という母親に育ったせいか、食べ物の繊細さが分からない。
昔息子がまだ小学生だったころ、母が作った料理に対して息子が、この料理とこの料理は合わない、と意見を言ったことがある。
母は、こんな幼い子に料理の取り合わせについて注意されたと、びっくりした顔をしていた。なんでもいいから食べきれないほどの料理を出すことが母にとっての歓待であった。
娘の子も、幼い時から女房の料理を食べていたせいか、味に関してはなかなか細かいことを言う。私はとてもいいことだと思っている。味覚に敏感であることは人生を楽しくするものである。
最近ご飯の楽しみは葉唐がらしの佃煮である。母は自分のおかずは用意しなかったが、たまに葉唐がらしをご飯に乗せて食べていた。
私も食べたことがあるが子供の口にはなじまなかった。この歳になって母の気持ちが分かるようになった。
しかし京都の老舗に葉唐がらしがない。どうしたのかと問い合わせると中国から入ってこないのだという。まさか京都の料亭の葉唐がらしが中国産だなんて。このショックは大きい。(了)
コメント